・・・それから彼女の運んで来た活版刷の局票の上へ芸者の名前を書きはじめた。張湘娥、王巧雲、含芳、酔玉楼、愛媛々、――それ等はいずれも旅行者の僕には支那小説の女主人公にふさわしい名前ばかりだった。「玉蘭も呼ぼうか?」 僕は返事をしたいにもし・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・これは僕の書いたもののうちで、始めて活版になったものである。元来この小説は京都の日の出新聞から巌谷小波さんの処へ小説を書いてくれという註文が来てて、小波さんが書く間の繋として僕が書き送ったものである。例の五枚寸延びという大安売、四十回ばかり・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・それからまたそれならばといって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だというような顔をして、覗いている人があ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 知っての通り、まずおれはお手のものの活版で、二色刷りの凝ったチラシをつくってやった。次に包装だ。箱など当時としては随分思いきったハイカラな意匠で体裁だけでいえば、どこの薬にもひけをとらぬ斬新なものだった。なお、大阪市内だけだが、新聞に・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本でいくら万葉集を研究したからとて、真の研究が成立とう訳はない理屈だから、どうも学科によっては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マアこんな意味合もあって、骨董は誠に貴ぶべし、・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・「相川さん、遅刻届は活版摺にしてお置きなすったら、奈何です」などと、小癪なことを吐す受付の小使までも、心の中では彼の貴い性質を尊敬して、普通の会社員と同じようには見ていない。 日本橋呉服町に在る宏壮な建築物の二階で、堆く積んだ簿書の裡に・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛の匂いがする。この辺の家の窓は、ごみで茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だと云うような顔をして、覗いている人・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ほとんど一世紀以前、日本の片隅に於て活版術を実用化せしもの既にありといっても過言で無い。そのほか、勾当の逸事は枚挙に遑なし。盲人一流の芸者として当然の事なれども、触覚鋭敏精緻にして、琉球時計という特殊の和蘭製の時計の掃除、修繕を探りながら自・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・右側の回廊の柱の下にマドンナの立像があってその下にところどころ活版ずりの祈祷の文句が額になってかけてあります。この祈祷をここですれば大僧正から百日間のアンジュルジャンスを与えるとある。「年ふるみ像のみ前にひれふしノートルダームのみ名によりて・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
出典:青空文庫