・・・自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 私は、涙を流し放題に流して、地だんだをふまないばかりにせき立てて、震える手をのばして妹の頭がちょっぴり水の上に浮んでいる方を指しました。 若い男は私の指す方を見定めていましたが、やがて手早く担っていたものを砂の上に卸し、帯をくるく・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・そら、姉さん、この五月、三日流しの鰹船で二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。 野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩めに夕飯を食ったあとでよ。 昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆胴の間へもぐってな、そん時・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・「省作さん、流しましょうか」「ええ」「省作さんちょっと手ぬぐいを貸してくださいな」 おとよさんは忍び声でいうので、省作はいよいよ恐ろしくなってくる。恐ろしいというてもほかの意味ではない。こういう時は経験のある人のだれでも知っ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 楊枝をくわえて、下に行くと、家のおかみさんが流しもとで何か洗っていた手をやすめて、「先生、お早うござります」と、笑った。「つい寝坊をして」と、僕は平気で井戸へ行ったが、その朝に限って井筒屋の垣根をはいることがこわいような、おッ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・が、幕府が瓦解し時勢が一変し、順風に帆を揚げたような伊藤の運勢が下り坂に向ったのを看取すると、天性の覇気が脱線して桁を外れた変態生活に横流した。椿岳の生活の理想は俗世間に凱歌を挙げて豪奢に傲る乎、でなければ俗世間に拗ねて愚弄する乎、二つの路・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駈けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・そしてついに老人を三人の乗ってきた小船に乗せて、沖の方へ流してしまいました。みんなは、これで復讐がとげられたと思いました。もうこれからは、みんな物知りなどというものがいなくて、この国の人々が迷わされる心配のないのを喜びました。しかし、そうし・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・お光さん、どうか悪く思わねえでね、これはこの場限り水に流しておくんなよ」「どうもお前さんが、そう捌けて言っておくれだと、私はなおと済まないようで……」「何がお光さんに済まねえことがあるものか、済まねえのは俺よ。だが、そんなことはまあ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・あんたを探していたのだと、友子は顔を見るなりもう涙を流していた。妊娠しているのだと聞かされ、豹一ははっとした。友子は白粉気もなくて蒼い皮膚を痛々しく見せていた。豹一は友子と結婚した。家の近くに二階借りして、友子と暮した。豹一は毎日就職口を探・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫