・・・風呂に入って汗を流し座敷に帰って足を延べた時は生き返ったようであるが、同時に草臥れが出てしもうて最早筆を採る勇気はない。其処でその夜は寐てしもうて翌朝になって文章を書いて新聞社に送って置く。そうして宿屋を出る時は最早九時にも十時にもなって居・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・いや、実に私めも今朝そのおはなしを承わりまして、涙を流してござります」馬はボロボロ泣きだしました。 ホモイはあきれていましたが、馬があんまり泣くものですから、ついつりこまれてちょっと鼻がせらせらしました。馬は風呂敷ぐらいある浅黄のはんけ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
一面、かなり深い秋霧が降りて水を流した様なゆるい傾斜のトタン屋根に星がまたたく。 隣の家の塀内にある桜の並木が、霧と光線の工合で、花時分の通りの美くしい形に見える。 白いサヤサヤと私が通ると左右に分れる音の聞える様・・・ 宮本百合子 「秋霧」
・・・女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提を弔うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取り・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・彼は食事の時刻が来ると、黙って匙にスープを掬い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊ねてみた。「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖くはないのかね。」「・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・湯槽の向こうには肌ざわりのよさそうな檜の流し場が淡い色で描いてあり、正面の壁も同じように湯気に白けた檜の色が塗られている。右上には窓があって、その端のわずかに開いたところから、庭の緑や花の濃い色が、画面全体を引きしめるようにのぞいている。い・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫