・・・年を聞いて丙午だと知ると、八卦見はもう立板に水を流すお喋りで、何もかも悪い運勢だった。「男はんの心は北に傾いている」と聴いて、ぞっとした。北とは梅田新道だ。金を払って外へ出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛り場・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔ての関を据えて、松は心なく光琳風の影を宿せり。客はそのまま目を転じて、下の谷間を打ち見やりし・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・紀州とても人の子なり、源叔父の帰り遅しと門に待つようなりなば涙流すものは源叔父のみかは」夫なる老人の取繕いげにいうも真意なきにあらず。「さなり、げにその時はうれしかるべし」と答えし源叔父が言葉には喜び充ちたり。「紀州連れてこのたびの・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・櫓の音をゆるやかにきしらせながら大船の伝馬をこいで行く男は、澄んだ声で船歌を流す。僕はこの時、少年ごころにも言い知られぬ悲哀を感じた。 たちまち小舟を飛ばして近づいて来た者がある、徳二郎であった。「酒を持って来た!」と徳は大声で二三・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・と言い放って口惜し涙を流すところだが、お政にはそれが出来ない。母から厭味や皮肉を言われて泣いたのは唯だ悲くって泣いたので、自分が優しく慰さむれば心も次第に静まり、別に文句は無いのである。 ところで母は百円盗んで帰った。自分は今これを冷や・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・といまだに涙を流す。…… 黒島伝治 「二銭銅貨」
・・・それですから善女が功徳のために地蔵尊の御影を刷った小紙片を両国橋の上からハラハラと流す、それがケイズの眼球へかぶさるなどという今からは想像も出来ないような穿ちさえありました位です。 で、川のケイズ釣は川の深い処で釣る場合は手釣を引いたも・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・筏などは昼に比較して却って夜の方が流すに便りが可いから、これも随分下りて来る。往復の船は舷灯の青色と赤色との位置で、往来が互に判るようにして漕いで居る。あかりをつけずに無法にやって来るものもないではない。俗にそれを「シンネコ」というが、実に・・・ 幸田露伴 「夜の隅田川」
・・・ると三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、どこで何をしている事やら、帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔で、はあっはあっと、くるしそうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろぽろ涙を流す事もあり、またいきなり、私の寝ている・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・と私は、心からの大歓喜で、お詫びを言って、神へ感謝の涙を流すかも知れぬ。チュウリップも、ダリヤも要らない。そんなもの欲しくない。ただ、ひょっと、畑で立ち働いている姿を見せてくれさえすれば、いいのだ。私は、それで助かるのだ。出て来い、出て来い・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
出典:青空文庫