・・・ 一度乾いていた涙が、また止め度もなく流れる。しかし、それはもう悲しみの涙ではなくて、永久に魂に喰い入る、淋しい淋しいあきらめの涙である。 夜が迫って来る。マリアナの姿はもう見えない。私は、ただ一人淋しく、森のはずれの切株に腰をかけ・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものも鍬か草籠をかついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭を冠った女たちがその時々の野菜を洗って車に積・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・消えて失せるか、溶けて流れるか、武庫山卸しにならぬとも限らぬ。この瞳ほどな点の運命はこれから津田君の説明で決せられるのである。余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上げて冷たき茶を一時にぐっと飲み干した。「注意せんといかんよ」と津田君は再び同じ事・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・喜べこの上もない音楽の諧調――飢に泣く赤ん坊の声、砕ける肉の響き、流れる血潮のどよめき。 この上もない絵画の色――山の屍、川の血、砕けたる骨の浜辺。 彫塑の妙――生への執着の数万の、デッド、マスク! 宏壮なビルディングは空に向っ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・そういう時はあらゆる人の胸を流れる愛の流が、己の胸にも流れて来て、胸が広うなったような心持がしたものだ。今はそんな心持は夢にもせぬ。この音楽がもう少しこのまま聞えていて、己の心を感動させてくれれば好い。これを聞いている間は、何だか己の性命が・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・その時童子はふと水の流れる音を聞かれました。そしてしばらく考えてから、とお尋ねです。須利耶さまは沙漠の向うから昇って来た大きな青い星を眺めながらお答えなされます。(水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平らな所 童子の脳は急にす・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 身は霧の中にただよい、心は想いの中を流れる。 銀の霧 月の黄金 その中に再び我名を呼ばれるまで私は想いの国の女王である。 宮本百合子 「秋霧」
・・・山を一面に包んでいた雪が、巓にだけ残って方々の樅の木立が緑の色を現して、深い深い谷川の底を、水がごうごうと鳴って流れる頃の事である。フランツは久振で例の岩の前に来た。 そして例のようにハルロオと呼んだ。 麻のようなブロンドな頭を振り・・・ 森鴎外 「木精」
・・・じられた光景を見たときも感じたことだが、一人のものが十二羽の鵜の首を縛った綱を握り、水流の波紋と闘いつつ、それぞれに競い合う本能的な力の乱れを捌き下る、間断のない注意力で鮎を漁る熟練のさ中で、ふと私は流れる人生の火を見た思いになり遠く行き過・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。六 私は自分に聞く。――お前にどんな天分があるか。お前の自信が虫のよいうぬぼれでない証拠はどこにあるのだ。 そこで私は考える。―・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫