・・・仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく撫でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその眉間に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に応えて、馬は声も立てずに前膝をつ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・裾を浮かすと、紅玉に乳が透き、緑玉に股が映る、金剛石に肩が輝く。薄紅い影、青い隈取り、水晶のような可愛い目、珊瑚の玉は唇よ。揃って、すっ、はらりと、すっ、袖をば、裳をば、碧に靡かし、紫に颯と捌く、薄紅を飜す。 笛が聞える、鼓が鳴る。ひゅ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・と女房が腰を浮かす、その裾端折で。 織次は、酔った勢で、とも思う事があったので、黙っていた。「ぬたをの……今、私が擂鉢に拵えて置いた、あれを、鉢に入れて、小皿を二つ、可いか、手綺麗に装わないと食えぬ奴さね。……もう不断、本場で旨いも・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・うな原のうねりの中に、雪と散る浪の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地に、燃ゆる焔の色にて十字架を描く。濁世にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯の目にも入ると覚しく、焔のみははたを離れ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・それへひっかけないようにそこで一寸櫛の歯を浮かす、その呼吸がのみこめた時分にはそろそろ私のかえる時が迫った。祖母の鏡立ては木目のくっきりした渋色の艷のある四角い箱のようなものであった。鏡は妙によく見えなくて、いくら拭いても見えないことには変・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・一人が椅子から腰を浮かすや否や、背後に待機していた人が極めて敏捷に、そのあとへ坐る。立った人の脚の片方がまだ椅子のところからどききらないうち、もう新手のひとの片脚はその片脚のわきに来ている。その位のすばしこさである。大抵のひとが上着をぬいだ・・・ 宮本百合子 「列のこころ」
出典:青空文庫