・・・と同時にあの眼つきが、――母を撲とうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。が、そっと兄の容子を見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。―― そんな事を考えると、兄がすぐに帰って来るかどうか、いよいよ怪し・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・久保田君の時に浮ぶる微笑も微苦笑と称するを妨げざるべし。唯僕をして云わしむれば、これを微哀笑と称するの或は適切なるを思わざる能わず。 既にあきらめに住すと云う、積極的に強からざるは弁じるを待たず。然れども又あきらめに住すほど、消極的に強・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・ ――このお話をすると、いまでも私は、まざまざとその景色が目に浮ぶ。―― ところで、いま言った古小路は、私の家から十町余りも離れていて、縁で視めても、二階から伸上っても、それに……地方の事だから、板葺屋根へ上ってしても、実は建連った・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ すべて旧藩侯の庭園だ、と言うにつけても、贈主なる貴公子の面影さえ浮ぶ、伯爵の鸚鵡を何としょう。 霊廟の土の瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追うよう、たちどころに坊主の虫歯を癒したはさることながら、路々も悪臭さの消えないばかりか、口中の臭・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・自分はこう考えて、浮かぶことのできない、とうてい出ずることのできない、深い悲しみの淵に沈んだような気がした。今の自分はただただ自分を悔い、自分を痛め、自分を損じ苦しめるのが、いくらか自分を慰めるのである。今の自分には、哲学や宗教やはことごと・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・こう考えてくるとお繁さんの活々とした風采が明かに眼に浮ぶ。 土地の名物白絣の上布に、お母さんのお古だという藍鼠の緞子の帯は大へん似合っていた。西日をよけた番神堂の裏に丁度腰掛茶屋に外の人も居ず、三人は緩り腰を掛けて海を眺めた。風が変って・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・妻の他所行き姿が目の前に浮ぶ。そして昔の懐かしいかおりまでが僕の鼻をつく。「行って来ますよ」という外出の時の声と姿とは、妻の年取るに従って、だんだん引き締って威厳を生じて来たのを思い出させた。 まだ長襦袢がある。――大阪のある芸者―・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ こんな空想が、ふと頭の中に、一片の雲のごとく浮かぶと、急にいたたまらないようにさびしくなりました。 そこを出て、明るい通りから、横道にそれますと、もう、あたりには、まったく夜がきていました。その夜も、日の短い冬ですから、だいぶふけ・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 夏の夕暮れ方、西の空の、ちょうど町のとがった塔の上に、その赤い魚のような雲が、しばしば浮かぶことがありました。子供たちは、それを見ると、なんとなく悲しく思ったのです。 小川未明 「赤い魚と子供」
・・・ 在りし昔が顕然と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も彼もズッと昔の事のように思われるのだが……或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を駐めて・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
出典:青空文庫