・・・ この使のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの切立の段を下りた宮本町の横小路に、相馬煎餅――塩煎餅の、焼方の、醤油の斑に、何となく轡の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
一 むらむらと四辺を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶な姿で、電車の中から、颯と硝子戸を抜けて、運転手台に顕われた、若い女の扮装と持物で、大略その日の天気模様が察しられる。 ・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ ある冬の日のこと、子供は、村はずれに立って、かなたの国境の山々をながめていますと、大きな山の半腹に、母の姿がはっきりと、真っ白な雪の上に黒く浮き出して見えたのであります。これを見ると、子供はびっくりしました。けれど、このことを口に出し・・・ 小川未明 「牛女」
・・・春の頃など夕日が本郷台に沈んで赤い空にこの高い建物が紫色に浮き出して見える時などは、これが一つの眺めになったくらいのものである。しかし間近く上野をひかえているだけに、何処か明るい花やかなところもあった。花の時分などになると何となく春のどよみ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ように製作者の意図によって故意にかもし出されたのかもしれないが、しかし一面から見るとこの陰惨な雰囲気はフランス人の国民性そのものの中に蔵されているグルーミーでペンシィヴな要素が自然に誘い出されてここに浮き出しているのではないかという気もする・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・すべてがほの暗いそうして底光りのする雰囲気の中から浮き出した宝玉のようなものであった。 そうしてそのほかに一枚青衣の少女の合掌した半身像があった。これは両親と自分との居間のびかんに掲げられたままで長い年月を経た。中学の同級生のうちで自分・・・ 寺田寅彦 「青衣童女像」
・・・高い梢の枯枝が時々この美しい空に浮き出して見えた。車の中は暖かで、身体には何の苦痛もなかった、何のためにこうして送られて行くのかという気もした。自分が死骸になって送られていると想像してみた。病室までの道は予想に反して長くどこをどう通っている・・・ 寺田寅彦 「病中記」
・・・大きいのや小さいのや、長い小枝を杖のようにさげたのや、枯れ葉を一枚肩にはおったのや、いろいろさまざまの格好をしたのが、明るい空に対して黒く浮き出して見えた。それがその日その日の風に吹かれてゆらいでいた。 かよわい糸でつるされているように・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・黒くて少し浮き出した柱のような岩があるでしょう。あれは水成岩の割れ目に押し込んで来た火山岩です。黒曜石です。〕ダイクと云おうかな。いいや岩脈がいい。〔ああいうのを岩脈といいます。〕わかったかな。〔わかりましたか。向うの崖に黒い岩が縦に突・・・ 宮沢賢治 「台川」
出典:青空文庫