・・・延若だの団十郎だの蝦十郎だの、名優の名がそのころ彼の耳についていた。金が夢のように費いはたされて、彼らが零落の淵に沈む前に、そうしたこの町相当の享楽時代があった。道太の見たのはおそらくその末期でしかなかったが、彼女はその時代を知っていた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、春水が手錠はめられ海老蔵は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯の海の波風に、命の筆の水馴竿、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 人家の屋根に日を遮られた往来には海老色に塗り立てた電車が二、三町も長く続いている。茅場町の通りから斜めにさし込んで来る日光で、向角に高く低く不揃に立っている幾棟の西洋造りが、屋根と窓ばかりで何一ツ彫刻の装飾をも施さぬ結果であろう。如何・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・今日会社の帰りに池の端の西洋料理屋で海老のフライを食ったが、ことによるとあれが祟っているかもしれん。詰らん物を食って、銭をとられて馬鹿馬鹿しい廃せばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓を粉に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」「海老のようになるって?」「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」「妙だね」「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 少時前報ッたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鉄棒の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談の途断れる時分となッた。 廊下には上草履の音がさびれ、台の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 忠一が悲痛らしく眉を顰めて、「何にしろ、蝦姑だろうね」といった。「全くさ」 大きな声で、廊下から篤介が怒鳴った。「蝦姑にするたあ洒落くせえ!」「でも、本当に、海老なかったのかしら」 小さい声で、思い出したよ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「でも、本当に、海老なかったのかしら」 小さい声で、思い出したようにふき子がいったので陽子は体をゆすって笑い出した。 彼等は昨夜、二時過ぎまで起きて騒いでいた。十時過ぎ目をさますと、ふき子は、「岡本さん、おひる、何にしましょ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
一、蝦、鰒類、うなぎ、肉類、新鮮な野菜二、味のすっぱいものは食べられません。見た形や色がいやな連想を与えるもの、例えて云うと、近頃焼魚をまるで食べられない如く。〔一九二四年一月〕・・・ 宮本百合子 「すきな食べ物と嫌いな食べ物」
出典:青空文庫