・・・「じゃ君の清元の御師匠さんの近所じゃないか?」「ええ、まあそんな見当です。」 神山はにやにや笑いながら、時計の紐をぶら下げた瑪瑙の印形をいじっていた。「あんな所に占い者なんぞがあったかしら。――御病人は南枕にせらるべく候か。・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・しぶいさびの中に、長唄や清元にきく事の出来ないつやをかくした一中の唄と絃とは、幾年となくこの世にすみふるして、すいもあまいも、かみ分けた心の底にも、時ならない情の波を立てさせずには置かないのであろう。「浅間の上」がきれて「花子」のかけあ・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・その頃横山町に家内太夫という清元のお師匠さんがあった。椿岳はこのお師匠さんに弟子入りして清元の稽古を初めたが、家族にも秘密ならお師匠さんにも淡島屋の主人であるのを秘して、手代か職人であるような顔をして作さんと称していた。それから暫らく経って・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・江戸の御家人にはこういう芸欲や道楽があって、大抵な無器用なものでも清元や常磐津の一とくさり位は唄ったもんだ。二葉亭のお父さんも晩酌の膳に端唄の一つも唄うという嗜みがあったのだから、若い時分には相応にこの方面の苦労をしたろうと思う。この享楽気・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜大騒ぎをやらかしたあげく、父がしまいにステテコを踊り出し・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・また清元の十六夜清心には「蓮の浮き葉の一寸いと恍れ、浮いた心ぢやござんせぬ。弥陀を契ひに彼の世まで……結びし縁の数珠の緒を」という一ふしがある。 しかしすべての結合がこういった純真な悲劇で終わるとはもとより限らない。ある者はやむなく、あ・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・と新七は言葉に力を入れて、「お母さんだっても御覧なさいな、茶の湯や清元がこんな時の役にはそう立ちますまい。そこへ行くと、お力なぞはお母さんのようなたしなみはないにしたところで、何かこう下から頭を持ち上げて来るようなところがあるじゃありません・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 町中の堀割に沿うて夏の夕を歩む時、自分は黙阿弥翁の書いた『島鵆月白浪』に雁金に結びし蚊帳もきのふけふ――と清元の出語がある妾宅の場を見るような三味線的情調に酔う事がしばしばある。 観潮楼の先生もかつて『染めちがえ』と題する短篇小説・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の直侍などで、清元の出語りは若い女で、これは馬鹿に拙い。延久代という名取名を貰っている阿久は一々節廻しを貶した。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ 狂言稗史の作者しばしば男女奇縁を結ぶの仲立に夕立を降らしむ。清元浄瑠璃の文句にまた一しきり降る雨に仲を結ぶの神鳴や互にいだき大川の深き契ぞかわしけるとは、その名も夕立と皆人の知るところ。常磐津浄瑠璃に二代目治助が作とやら鉢の木を夕立の・・・ 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫