・・・って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻口を指したまま、鱗でもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮か、冴か、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹を潰した渋柿に似てころりと飛んだ。 僧はハア・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り畑違いの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時に訊くと、「大変なものを見附けられた。アレはネ……」と渋柿園老人は例の磊落な調子で、「島田の奴が馬を引張って・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・「ところがあれやみんな渋柿だ。みな干柿にするんですよ」と私も笑った。 柿の傍には青々とした柚の木がもう黄色い実をのぞかせていた。それは日に熟んだ柿に比べて、眼覚めるような冷たさで私の眼を射るのだった。そのあたりはすこしばかりの平地で・・・ 梶井基次郎 「闇の書」
・・・薄赤い縦横の縞は、不潔な渋柿色を呈して老婆の着物のようである。私は今更ながら、その着物の奇怪さに呆れて顔をそむけた。 ことしの秋、私は必ずその日のうちに書き結ばなければならぬ仕事があって、朝早く飛び起き、見ると枕元に、見馴れぬ着物が、き・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ 正門前で自動車から降りて、見ると、学校は渋柿色の木造建築で、低く、砂丘の陰に潜んでいる兵舎のようでありました。玄関傍の窓から、女の人の笑顔が三つ四つ、こちらを覗いているのに気が附きました。事務の人たちなのでありましょう。私は、もっとい・・・ 太宰治 「みみずく通信」
・・・や「渋柿」誌上で俳諧連句の構成が映画のモンタージュ的構成と非常に類似したものであるということを指摘したことがある。その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。お・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・これと始めのうちに同居していたたくさんの花瓶はだんだんに入り代わって行くのに、これだけは木守りの渋柿のように残っていた。ところがこのあいだ行って見ると、もうこの自分の好きな花瓶も見えなくなっていた。なんだかやっと安心したような気がしたがはた・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・もしろい結果が得られはしないかと思うのであるが、自分で今それを遂行するだけの余裕のないことを遺憾とする。もし渋柿同人中でこれを試みようという篤志家を見いだすことができれば大幸である。以上はただそういう方面の研究をする場合に役に立ちそうだと思・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・ 鼻たれの兄と呼ばるゝ夜寒かな ふと眼を開けば夜はいつしか障子の破れに明けて渋柿の一つ二つ残りたる梢に白雲の往き来する様など見え渡りて夜着の透間に冬も来にけんと思わる。起き出でて簀子の端に馬と顔突き合わせながら口そそぎ手あらいす・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
出典:青空文庫