・・・伝右衛門の素朴で、真率な性格は、お預けになって以来、夙に彼と彼等との間を、故旧のような温情でつないでいたからである。「早水氏が是非こちらへ参れと云われるので、御邪魔とは思いながら、罷り出ました。」 伝右衛門は、座につくと、太い眉毛を・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・す柳をうつし、また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみだされて、人けのない廚の下を静かに光りながら流れるのも、その重々しい水の色に言うべからざる温情を蔵していた。たとえ、両国橋、新大橋・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 自分は鏡の中のこの光景を、しばらく眺めている間に、毛利先生に対する温情が意識の表面へ浮んで来た。一そ自分もあすこへ行って、先生と久闊を叙し合おうか。が、多分先生は、たった一学期の短い間、教室だけで顔を合せた自分なぞを覚えていまい。よし・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・いわゆる社会政策と称せられる施設、温情主義、妥協主義の実施などはすべてそれである。これらの修正策が施された後に、社会主義的思想ははじめて実現されるわけになるのだ。それならば社会政策的の施設する未だ行なわれようとはしなかった時代に、何を苦しん・・・ 有島武郎 「広津氏に答う」
・・・そして、この温情深い先生の膝下から、遠く離れるのを、心のうちで、どんなにさびしく思ったかしれません。 こうして、彼は、ついに東京の人となりました。 きた当座は、自転車に乗るけいこを付近の空き地にいって、することにしました。また、電話・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・ 温情家とか慈善家とでも思っているのかね? とんでもない!」原口の出て行った後で、笹川は不機嫌を曝けだした、罵るような調子で私に向ってきた。 私は恐縮してしまった。「いやけっしてその、そんな風に考えているというわけでもないのだがね…・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・それ以外の社会改良、労資協調的温情はかえって、理想社会の到達を遅らすのみである。エンゲルスはマルクスと、半世を献身的友情をもって共産主義宣伝のために働いた。『弁証法と自然』において、唯物弁証法を発展させ、『英国における労働階級の境遇』におい・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・あの夜は、この温情家たる僕に、ひとつの明確な酷点を教示した。君のゆるせなかったもの、それは僕の酷点のひとつに相違ない。『われ、太陽の如く生きん。』僕の足もとに膝まずいて、君が許せないと感じたものを白状して御覧。君は、そういう場合、まるで非芸・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・コールド・ウォー こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも饗応せず、思い切り酷使しなければ、損だ。温情は大の禁物、わが身の破滅。 キヌ子に殴られ、ぎゃっとい・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ おでこは心の広さを現わし、小さく格好よく引きしまった鼻はインテリジェンスとデリカシーの表象であり、下がった目じりは慈愛と温情の示現である、という場合もあるであろう。しかしまたこれと反対の場合のあることももちろんであろう。 顔の美醜・・・ 寺田寅彦 「破片」
出典:青空文庫