・・・自然の不可思議な機構を捜る喜びと、本能の欲求する睡眠を抑制するつらさとが渾然と融和した形になって当時の記憶を彩っているようである。 その頃の熱海行きは、国府津まで汽車で行って国府津から小田原まで電車、小田原からは人車鉄道という珍しい交通・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・生物現象がすべて現在の物理学で説明できようとは思われぬが、しかしプランクが無生物質界の方則の統一を理想とするならば、もう一歩を進めて物理生理あるいは心理学までも包括して渾然たる一つの「理学」という系統がいつかは設立されるという理想をいだく事・・・ 寺田寅彦 「物理学と感覚」
・・・しかしあらゆる可能な漫画家を一団として見る時には、各画家を微分とした無限項の和としての積分は渾然たる一つの定まった極限値を有する「真の」一面と考えるに不都合があるだろうか。 科学上の真を言明するために使用する言語や記号は純化され洗煉され・・・ 寺田寅彦 「漫画と科学」
・・・カステラや鴨南蛮が長崎を経て内地に進み入り、遂に渾然たる日本的のものになったと同一の実例であろう。 自分はいつも人力車と牛鍋とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中で一番成功したものと信じている。敢て時間の経過が今日の吾人をして人・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・『今戸心中』が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられているのみならず、また妓楼全体の生活が渾然として一幅の風俗画をなしているからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・一は記事に過ぎないが一は渾然たる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。 西鶴の価を思切って低くして考えれば、谷崎君がわたくしを以て西鶴の・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・一代の趣味も渾然として此処まで堕落してしまって、又如何ともすることの出来ぬものに成り了ってしまうと、平生世間外に孤立している傍観者には却て一種奇異なる興味と薄い気味悪さとを覚えさせるようになる。 僕は銀座街頭に於て目撃する現代婦女の風俗・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・首尾一貫前後相待って渾然と出来上がっている。なぜかと云うと、篇中に出て来る人間の心状、及び動作がことごとくタイフーンと舟火事なる自然力を離れずに、どこまでも密接な関係をもって展化進行するから、自然と人間が打って一丸となされて、偉大なる自然力・・・ 夏目漱石 「コンラッドの描きたる自然について」
・・・また渾然融合している。幕の開いた時の感じもよかった。幕の閉まる時の人物の位置態度も大変よかった。そうして御俊も伝兵衛も綺麗であった。ただ与次郎なるものが少々やりすぎる。今一歩うち場に控えればあんな厭味は出ないはずである。○しまいの踊は綺・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
・・・作品としての現実が渾然と読者の心を撃つというよりは、調査した実際と想像とが文学の現実以前のままのありようでつなぎ合わされていた。 文学の世界の現実と日々の実際というものとの間にあるこの作者独特な混乱は、或はこの作者が人間としては芸術・・・ 宮本百合子 「「結婚の生態」」
出典:青空文庫