・・・…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂いが鼻を撲った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・今しも届きたる二三の新聞を読み終りて、辰弥は浴室にと宿の浴衣に着更え、広き母屋の廊下に立ち出でたる向うより、湯気の渦巻く濡手拭に、玉を延べたる首筋を拭いながら、階段のもとへと行違いに帰る人あり。乙女なり。かの人ぞと辰弥は早くも目をつけぬ。思・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・鏡のわくはわずかに焦げ、丸太の端よりは怪しげなる音して湯気を吹けり。童らはかわるがわる砂に頭押しつけ、口を尖らして吹けどあいにくに煙眼に入りて皆の顔は泣きたらんごとし。 沖ははや暗うなれり。江の島の影も見わけがたくなりぬ。干潟を鳴きつれ・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・い、水車場とこの屋との間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄のわきを白き藁浮かべて流れ、半ば眠れる馬の鬣よりは雨滴重く滴り、その背よりは湯気立ちのぼり、家鶏は荷車の陰に隠れて羽・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・青黒く透明な鉱泉からは薄い湯気が立っていた。先生は自然と出て来る楽しい溜息を制えきれないという風に、心地の好い沸かし湯の中へ身を浸しながら、久し振で一緒に成った高瀬を眺めたり、田舎風な浅黄の手拭で自分の顔の汗を拭いたりした。仮令性質は冷たく・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・風呂からあがりたてらしく、やせこけた両肩から湯気がほやほやたっていた。僕の顔を見てもさほど驚かずに、「夜爪を切ると死人が出るそうですね。この風呂で誰か死んだのですよ。おおやさん。このごろは私、爪と髪ばかり伸びて。」 にやにやうす笑い・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・酒はおびただしく、からだに廻って全身かっかと熱く、もはや頭から湯気が立ち昇るほどになっていた。 自己紹介がはじまっている。皆、有名な人ばかりである。日本画家、洋画家、彫刻家、戯曲家、舞踏家、評論家、流行歌手、作曲家、漫画家、すべて一流の・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・を繰返しては湯気の立つ馬をまじまじ眺めていた。 ウワルプルギスナハトには思ったような凄味はなかった。しかし思わない凄味がどこかにあった。お化けは居ないがヘクセンやエルフェンは居そうな気がした。ドクトル、ベエアマンはここで花崗岩の破れ目の・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・ 話は横道に外れるが、盥に入れた湯の湯気の上り方を見れば、だいたいの温度の見当がつくものである。しかしいつか赤ん坊をいきなり盥の熱湯に入れて、大火傷をさせた女の話を聞いたことがある。これなどはちょっと想像のつきかねることである。たぶんそ・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・ 赤い襷をかけた女工たちは、甲斐甲斐しく脱ぎ棄てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩めている桶の中へ突っ込んでいる。「おい止せよ、女の眼前で、そんなの脱がすのは止せよ」「止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸向うを向いてて・・・ 徳永直 「眼」
出典:青空文庫