・・・この島の土人はあの肉を食うと、湿気を払うとか称えている。その芋も存外味は好いぞ。名前か? 名前は琉球芋じゃ。梶王などは飯の代りに、毎日その芋を食うている。」 梶王と云うのはさっき申した、兎唇の童の名前なのです。「どれでも勝手に箸をつ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・木の芽を誘うには早すぎるが、空気は、湿気を含んで、どことなく暖い。二三ヶ所で問うて、漸く、見つけた家は、人通りの少ない横町にあった。が、想像したほど、閑静な住居でもないらしい。昔通りのくぐり門をはいって、幅の狭い御影石の石だたみを、玄関の前・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。 凡てが順当に行った。播いた種は伸をするようにずんずん生い育った。仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・目に見えない湿気が上からちぎれて落ちて来る。人道の敷瓦や、高架鉄道の礎や、家の壁や、看板なんぞは湿っている。都会がもう目を醒ます。そこにもここにも、寒そうにいじけた、寐の足りないらしい人が人道を馳せ違っている。高架鉄道を汽車がはためいて過ぎ・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・四月の末だというのに、湿気を含んだ夜風が、さらさらと辻惑いに吹迷って、卯の花を乱すばかり、颯と、その看板の面を渡った。 扉を押すと、反動でドンと閉ったあとは、もの音もしない。正面に、エレベエタアの鉄筋が……それも、いま思うと、灰色の魔の・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 前に青竹の埒を結廻して、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個……みまわしても視めても、雨上りの湿気た地へ、藁の散ばった他に何にも無い。 中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量を溢まして、筵の上に仇光りの陰気な光沢を持った鼠色の・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 一山に寺々を構えた、その一谷を町口へ出はずれの窮路、陋巷といった細小路で、むれるような湿気のかびの一杯に臭う中に、芬と白檀の薫が立った。小さな仏師の家であった。 一小間硝子を張って、小形の仏龕、塔のうつし、その祖師の像などを並べた・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・そのあたりは埋立地のせいか年中じめじめした湿気が去らなかった。日の射さぬ中庭は乾いたためしはなかった。鼠の死骸はいつまでもジクジクしていた。近くの古池からはなにかいやな沼気が立ちのぼるかと思われた。一町先が晴れてもそこだけは降り、風は黒く渡・・・ 織田作之助 「道」
・・・難を云えば造りが薄手に出来ていて湿気などに敏感なことです。一つの窓は樹木とそして崖とに近く、一つの窓は奥狸穴などの低地をへだてて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎の老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わた・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・薄暗くて湿気があった。地下室のようだ。彼は、そこを、上等兵につれられて、垢に汚れた手すりを伝って階段を登った。一週間ばかりたった後のことだ。二階へ上るとようよう地下室から一階へ上った来たような気がした。しかし、そこが二階であることは、彼は、・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫