・・・ しかし劇場へ行ってみると、もう満員の札が掲って、ぞろぞろ帰る人も見受けられたにかかわらず、約束しておいた桟敷のうしろの、不断は場所のうちへは入らないような少し小高いところが、二三人分あいていた。お絹にきくと、いつもはお客の入らないとこ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 四 妹の百代、下の悌、忠一、又従兄の篤介、陽子まで加ったのでふき子の居間は満員であった。円卓子を中心にして、奥の箪笥の前にふき子が例の緑色椅子にいる。忠一が持って来たクラシックを熱心に繰っていた。となりに、百・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 丁度目の前でドアが開いて、七分通り満員の車内の一部が見えた。リュックをかついで、カーキの服を着て、ぼんやりした表情の人々の顔が、こちらを向いている。ああこれが、有楽町か、という心もちの動きの出ている眼もないし、ひどい人だ、と思って投げ・・・ 宮本百合子 「一刻」
・・・ ベルを鳴らして疾走して来る電車はどれも満員だ。引け時だからたまらない。群衆をかきわけて飛び出した書類入鞄を抱え瘠せた赤髭の男が、雨外套の裾をひるがえして電車の踏段に片足かけ、必死になって ――入り給え! 入り給え!とやっている・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・車内は九分通り満員だ。二人はその農夫の前えに並んでかけた。 農夫はやがて列車が動き出すと、学生に話しかけた。「学校は東京ですかい?」「ええ」「あなた方の学校にも、支那の留学生がいますか」 ちょうど漢口事件のあった後であっ・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・しかもそんな芝居でも、見物は満員である。俳優たちは、何となしそんな関係におかれている自分の舞台にうすら寒いものを感じているだろうとも思われた。 健全な演劇というものは、特定の観念をテーマとした台本を上演するということだけで決して解決・・・ 宮本百合子 「“健全性”の難しさ」
・・・ ラジオだ、ナマコ一枚だ、で留置場は満員だものなア。きんたまのあるような奴が一人でもいるかね」 保護室でぶつくさ、暗く、反抗的に声がした。「ひっぱりようがこの頃と来ちゃア無茶だもん。うかうか往来も歩けやしねえや」 満州で侵略戦争・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・「一度可決採用された計画の実行の問題に関しこの自己批判となると、大入満員の観がある」と。何故に、誰のために改善されなければならず、計画の実行の問題が重要なのであろうか。 ジイドによれば、人工的に過度に生産その他を強化する必要からであ・・・ 宮本百合子 「こわれた鏡」
・・・場末の常で、朝出て晩に帰れば、丁度満員の車にばかり乗るようになるのである。二人は赤い柱の下に、傘を並べて立っていて、車を二台も遣り過して、やっとの事で乗った。 二人共弔皮にぶら下がった。小川はまだしゃべり足りないらしい。「君。僕の芸・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫