・・・のみならず満潮は大森の海にも青い色の浪を立たせている。すると現実とは代赭色の海か、それともまた青い色の海か? 所詮は我々のリアリズムも甚だ当にならぬと云うほかはない。かたがた保吉は前のような無技巧に話を終ることにした。が、話の体裁は?――芸・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・そして私は寝床のなかで満潮のように悪寒が退いてゆくのを待っている。―― あたりはだんだん暗くなって来た。日の落ちたあとの水のような光を残して、冴えざえとした星が澄んだ空にあらわれて来た。凍えた指の間の煙草の火が夕闇のなかで色づいて来た。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・家人のつつましい焔、清潔の満潮、さっと涼しく引いた様子で、私も内心ほっとしていた。それは残念でしたねえ、もういちど繰り返して教えてもいいんだが、――。家人、右の手のひらをひくい鼻の先に立てて片手拝みして、もうわかった。いつも同じ教材ゆえ、た・・・ 太宰治 「創生記」
・・・これは月と太陽との引力のために起るもので、月や太陽が絶えず東から西へ廻るにつれて地球上の海面の高く膨れた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた大体において東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入っ・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
・・・顔にふるる芭蕉涼しや籐の寝椅子涼しさや蚊帳の中より和歌の浦水盤に雲呼ぶ石の影涼し夕立や蟹這い上る簀の子縁したたりは歯朶に飛び散る清水かな満潮や涼んでおれば月が出る 日本固有の涼しさを十七字に結晶さ・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ 行けば行くほど広くなる谿は、いつの間にか、白楊や樫や、糸杉などがまるで、満潮時の大海のように繁って、その高浪の飛沫のように真白な巴旦杏の花が咲きこぼれている盆地になりました。 そして、それ等の樹々の奥に、ジュピタアでもきっと御存じ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
あんまりはっきり晴れ渡らない空合で、風も静かに気にかからぬまでに吹いて居る。 丁度満潮時で、海面は白と藍のむら濃になってゆるやかに息をついて居る。 かなり久しい間、海に来ないで居たので、波の音が、脳の中の、きたない・・・ 宮本百合子 「冬の海」
・・・ 十三 その夜、満潮になると、彼の妻は激しく苦しみ出した。医者が来た。カンフルと食塩とリンゲルが交代に彼女の体内に火を点けた。しかし、もう、彼女は昨日の彼女のようにはならなかった。ただ最後に酸素吸入器だけが、彼女・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫