・・・しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている。 又 わたしを感傷的にするものは唯無邪気な子供だけである。 又 わたしは三十にならぬ前に或女を愛していた。その女は或時わたしに言った・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈られて、満身の重みをそれに托した。「痛い」 それが聞きたかったのだ。彼れの肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに眼がくるめいた。彼れはいきなり女に飛びかか・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・の女が時々神経に異変を来して、頭あたかも破るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼くなりながら、身火烈々身体を焼きて、恍として、茫として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼にこめて、その瞳をも動かさで・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ この五色で満身を飾り立ったインコ夫人が後に沼南の外遊不在中、沼南の名誉に泥を塗ったのは当時の新聞の三面種ともなったので誰も知ってる。今日これを繰返しても決して沼南の徳を累する事はあるまい。徳を累するどころか、この家庭の破綻を処理した沼・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ステップニャツクの肖像や伝記はその時分まだ知らなかったが、精悍剛愎の気象が満身に張切ってる人物らしく推断して、二葉亭をもまた巌本からしばしば「哲学者である」と聞いていた故、哲学者風の重厚沈毅に加えて革命党風の精悍剛愎が眉宇に溢れている状貌ら・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・』と叫んでわが満身の勇気を示した。老人は忙しく懐から孟子を引き出した、孟子を!『ソラここを読んで見ろ』と僕の眼前に突き出したのが例の君、臣を視ること犬馬のごとくんばすなわち臣の君を見ること国人のごとし云々の句である。僕はかねてかくあ・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・と喚き、さながら仁王の如く、不動の如く、眼を固くつむってううむと唸って、両腕を膝につっぱり、満身の力を発揮して、酔いと闘っている様子である。 酔う筈である。ほとんど彼ひとりで、すでに新しい角瓶の半分以上もやっているのだ。額には油汗がぎら・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・私はたと困惑、濡れ鼠のすがたのまま、思い設けぬこの恥辱のために満身かっかっとほてって、蚊のなくが如き声して、いま所持のお金きっちり三十銭、私の不注意でございました。なんとか助けて下さい、と懇願しても、その三十歳くらいの黄色い歯の出た痩せこけ・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・南国の盛夏の真昼間の土蔵の二階の窓をしめ切って、満身の汗を浴びながら石油ランプに顔を近寄せて、一生懸命に朦朧たる映像を鮮明にかつ大きくすることに苦心した当時の心持ちはきのうのことのように記憶に新たである。青と赤のインキで塗った下手な鳥の絵の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫