・・・ 保吉は眉間の震えるのを感じた。「ビイル!」 物売りはさすがに驚いたように保吉の顔へ目を注いだ。「朝日ビイルはありません。」 保吉は溜飲を下げながら、物売りを後ろに歩き出した。しかしそこへ買いに来た朝日は、――朝日などは・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、溜飲を下げてやろうと思ったけれど……どんな発機で、自棄腹の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置い・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・毎年の元旦に玄関で平突張らせられた忌々しさの腹慰せが漸とこさと出来て、溜飲が下ったようなイイ気持がしたと嬉しがった。表面は円転滑脱の八方美人らしく見えて、その実椿岳は容易に人に下るを好まない傲岸不屈の利かん坊であった。十 椿岳の畸行・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と、いつも沈着いてる男が、跡から跡からと籠上る嬉しさを包み切れないように満面を莞爾々々さして、「何十年来の溜飲が一時に下った。赤錆だらけの牡蠣殻だらけのボロ船が少しも恐ろしい事アないが、それでも逃がして浦塩へ追い込めると士気に関係する。・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 昼間の出来事で溜飲は下がったものの、しかし、夜の道は暗く寂しく、妻や子は死んでいるのか生きているのかと思えば、足は自然重かった。 途中にあるバラックから灯が洩れ、ラジオの歌が聴こえていた。「あ、ラジオが聴こえてる」 と、ミ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ひとつには、海老原の抱いている思想よりも彼の色目の方が本物らしいと、意地の悪い観察を下すことによって、けちくさい溜飲を下げたのである。私は海老原一人をマダムの前に残して「ダイス」を出ることで、議論の結末をつけることにした。「じゃ、ごゆっ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・だい取組みにも何もなりやしない、身のほどを知れ、身のほどを、死ぬまで駄目さ、きまっているんだ、よく覚えて置け、と兄の口真似をして、ちっとも実体の無い大衆作家なんかを持出してそいつを叱りつけて、ひそかに溜飲をさげているんだから私という三十五歳・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・もう十年も前から世界中の学者が口をもぐもぐさせて云おうとしていたが、適当な言葉が出て来ないので困っていたところへ、誰かが出て来て、はっきりした言葉でそれをすぱりと云って退ければ、世界中の学者は一度に溜飲が下がったような気がするであろう。・・・ 寺田寅彦 「スパーク」
・・・が、踏みつけても、踏みつけても、溜飲のように、それはこみ上げて来るのだった。 病める水夫は、のたうちまわった。人間を塩で食うような彼等も、誇張して無気味がる処女のように、後しざりした。 彼等は、倉庫から、水火夫室へ上った。「ピー・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ 作品の欠点や、チャチなところだけをつまみだして、パンパンパンと平手うちにやっつける批評ぶりは、本当のプロレタリア的批評ではない。溜飲はさがるかもしれないが弁証法的でないし、建設的でない。 大森義太郎氏の文学作品批評はきびきびしてい・・・ 宮本百合子 「こういう月評が欲しい」
出典:青空文庫