・・・すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、溢れるともなく、溢れて来る。――彼は涙の中に、佐渡守の前で云い切った語を、再びありありと思い浮べた。「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ 寂然して溢れる計り坐ったり立ったりして居るのが皆んなかんかん虫の手合いである。其の間に白帽白衣の警官が立ち交って、戒め顔に佩劔を撫で廻して居る。舳に眼をやるとイフヒムが居た。とぐろを巻いた大繩の上に腰を下して、両手を後方で組み合せて、・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・やがてクララの眼に涙が溢れるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を伝って流れはじめた。彼女はそれでも真向にフランシスを見守る事をやめなかった。こうしてまたいくらかの時が過ぎた。クララはただ黙ったままで坐っていた。「神の処女」 フランシ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 血はまだ溢れる、音なき雪のように、ぼたぼたと鳴って留まぬ。 カーンと仏壇のりんが響いた。「旦那様、旦那様。」「あ。」 と顔を上げると、誰も居ない。炬燵の上に水仙が落ちて、花活の水が点滴る。 俊吉は、駈下りた。 ・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・……そこに屋根囲した、大なる石の御手洗があって、青き竜頭から湛えた水は、且つすらすらと玉を乱して、颯と簾に噴溢れる。その手水鉢の周囲に、ただ一人……その稚児が居たのであった。 が、炎天、人影も絶えた折から、父母の昼寝の夢を抜出した、神官・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・たかと思う、濡れたように、しっとりと身についた藍鼠の縞小紋に、朱鷺色と白のいち松のくっきりした伊達巻で乳の下の縊れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様が軽く靡いて、片膝をやや浮かした、褄を友染がほんのり溢れる。露の垂りそうな円髷に、桔梗色の手・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ その掛稲は、一杯の陽の光と、溢れるばかり雀を吸って、むくむくとして、音のするほど膨れ上って、なお堪えず、おほほほほ、笑声を吸込んで、遣切れなくなって、はち切れた。稲穂がゆさゆさと一斉に揺れたと思うと、女の顔がぼっと出て、髪を黒く、唇を・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・僕も勿論愉快が溢れる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくらをする。大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸く二升ばかり宛を採り得た。「まァ民さん、御・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・暢気そうに、笑い顔している省作をつくづくと視つめて、老いの眼に心痛の色が溢れるのである。やがてまた思いに堪えないふうに、「お前はそんな暢気な顔をしていて、この年寄の心配を知らないのか」 そういわれて省作は俄かに居ずまいを直した。そう・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・一方は溢れるばかりの思想と感情とを古典的な行動に包んだ老独身者のおもかげだ。また一方はその性情が全く非古典的である上に、無神経と思われるまでも心の荒んだ売女の姿だ。この二つが、まわり燈籠のように僕の心の目にかわるがわる映って来るのである。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫