・・・中には白の耳のつけ根へ、血の滲むくらい当ったのもあります。白はとうとう尻尾を巻き、黒塀の外へぬけ出しました。黒塀の外には春の日の光に銀の粉を浴びた紋白蝶が一羽、気楽そうにひらひら飛んでいます。「ああ、きょうから宿無し犬になるのか?」・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風が過ぎると共に、実生活のごとく辛辣な、眼に滲むごとき葱のにおいが実際田中君の鼻を打った。「御待ち遠さま。」 憐むべき田中君は、世にも情無い眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・やわらかくまぶたに滲む乳汁に塵でチクチクしていた目の中がうるおうて塵が除れた。 亡くなった母を思い出すたびに、私は幼いときのその乳汁を目に落してくれた母が一番目の前に浮かぶのだ。なつかしい、温い、幾分動物的な感触のまじっている母の愛!・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 彼女のむきな調子には何か涙が滲む程切迫つまったところがあった。余程急に出立でもしなければならないのか、又はその転地が夫婦にとって余程の大事件であるか、何方にしろ只ごとではないと思わせた動顛と苦しさとが彼女の全身に漲っていたのである。・・・ 宮本百合子 「或る日」
出典:青空文庫