・・・また眼を転じて此方を見ると、ちら/\と漁火のように、明石の沿岸の町から洩れる火影が波に映っている。 歩いて須磨へ行く途中、男がざるに石竹を入れて往来を来るのに出遇った。見たことのないような、小さな、淡紅い可愛らしい花が咲いていた。また、・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・カンテラは闇の晩の漁火のようなものだった。その周囲だけを、いくらか明るくはする。しかし、洞窟全体は、ちっとも明るくならなかった。依然として恐ろしい暗は、そこに頑張っていた。 井村は、もう殆んど小便をすましてしまおうとしていた。と、その時・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・沖の奥は真暗で、漁火一つ見えぬ。湿りを帯びた大きな星が、見え隠れ雲の隙を瞬く。いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に湿っぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあおる。草も木も軒の風鈴も・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 或る夜、海岸、恋している男と女とが、沖の漁火を眺めながら散歩してる。女は、白い浴衣を着、手に団扇をもって、何とか彼とか男に云ってるところまで書いたら、不意に母親がやって来て、「百合ちゃん、お前がこれ書いたの?」 しようがない。・・・ 宮本百合子 「「処女作」より前の処女作」
・・・女は白い浴衣で団扇をもち、漁火が遠く彼方にチラチラ燦いているという極めて風情のあるところで、肝心の帳面ぐるみ、小学生作家の空想は明治時代らしいモラリストである母によって中断されてしまったのである。 ずっと後になってから私はその頃のことを・・・ 宮本百合子 「行方不明の処女作」
出典:青空文庫