・・・浦の雨夜の茶話は今も心に残っているが、それよりも、婆さんの潮風に黒ずんだ顔よりも、垣の山吹よりも深く心に沁み込んで忘られぬものが一つある。 宿の裏門を出て土堤へ上り、右に折れると松原のはずれに一際大きい黒松が、潮風に吹き曲げられた梢を垂・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・海岸に売店一つなく、太平洋の真中から吹いて来る無垢の潮風がいきなり松林に吹き込んでこぼれ落ちる針葉の雨に山蟻を驚かせていた。 明治三十五年の夏の末頃逗子鎌倉へ遊びに行ったときのスケッチブックが今手許に残っている。いろいろないたずら書きの・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
明治二十年代の事である。今この思い出を書こうとしている老学生のまだ紅顔の少年であったころの話である。太平洋からまともにはげしい潮風の吹きつけるある南国の中学にレコードをとどめた有名なストライキのあらしのあった末に英国仕込み・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
・・・若しその薄黒く潮風に吹き曝された角窓の裏に一人物を画き足したなら死竜は忽ち活きて天に騰るのである。天晴に比すべきものは何人であろう、ウィリアムは聞かんでも能く知っている。 目の廻る程急がしい用意の為めに、昼の間はそれとなく気が散って浮き・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・その恰幅と潮風に鍛えられた喉にふさわしい低い幅のある荘重な音声で草稿にしたがって読まれる演説は、森として場内の隅々まで響いた。どことなしお国の訛が入る。 つづいて桜内蔵相。内容はともかくとしてやはり声はよく耳に入った。畑陸相が登壇すると・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
・・・そこでまた落ち葉の上にすわって、山でさえこんなに寒い、浜辺に行った姉さまは、さぞ潮風が寒かろうと、ひとり涙をこぼしていた。 日がよほど昇ってから、柴を背負って麓へ降りる、ほかの樵が通りかかって、「お前も大夫のところの奴か、柴は日に何荷苅・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫