・・・ かかる少年時代の感化によって、自分は一生涯たとえ如何なる激しい新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて隅田川なる自然の風景に対する事は出来ないであろう。 鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・乾いた西風の烈しい時は其煤がはらはらと落ちる。鼠のためには屈竟な住居である。それでも春から秋の間は蛇が梁木を渡るので鼠が比較的少ない。蛇は時とすると煤けた屋根裏に白い体を現わして鼠を狙って居ることがある。そうした後には鼠は四五日ひっそりする・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽とわれを去る熱気が、静なる京の・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ そう云う運命に陥いるだろうと思ったので、わたくしは烈しい恐怖に襲われました。わたくしの心の臓は痙攣したように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・腰の痛み、脊の痛み、足の痛み、この頃の痛みというものは身動きもならぬ始末であるが、去年の暮の非常に烈しい痛が少し薄らいだために新年はいくらか愉快に感ずるのである。アアきょうもエー天気だ。〔『ホトトギス』第四巻第四号 明治34・1・31〕・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・あれぐらい昨日までしっかりしていたのに、明方の烈しい雷雨からさっきまでにほとんど半分倒れてしまった。喜作のもこっそり行ってみたけれどもやっぱり倒れた。いまもまだ降っている。父はわらって大丈夫大丈夫だと云うけれどもそれはぼくをなだめるためでじ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 人間の棲む到る処に恋愛の事件があり、個人の伝記には必ずその人の恋愛問題が含まれてはいますが、人類全般、個人の全生活を通観すると、それらは、強いが烈しいが、過程的な一つの現象と思われます。 恋愛経験の最中にある時、或は何かの理由で恋・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・城から打ち出す鉄砲が烈しいので、島が数馬の着ていた猩々緋の陣羽織の裾をつかんであとへ引いた。数馬は振り切って城の石垣に攀じ登る。島も是非なくついて登る。とうとう城内にはいって働いて、数馬は手を負った。同じ場所から攻め入った柳川の立花飛騨守宗・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・河は激しい音を立てて濁り出す。枯木は山の方から流れて来る。「雨、こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のよう・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・現世の濁った空気の中に何の不満もなさそうに栄えている凡庸人に対しては、烈しい憎悪を感じます。安価な楽天主義は人生を毒する。魂の饑餓と欲求とは聖い光を下界に取りおろさないではやまない。人生の偉大と豊饒とは畢竟心貧しき者の上に恵まれるでしょう。・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫