・・・昨夜の激情が、祟ったのだ。 雨が降っていた。私はまず、この雨の中を憤然としてトランクを提げて東京駅から発って行ったであろう笹川の姿を、想像した。そして「やっぱし彼はえらい男だ!」と、思わずにはいられなかったのだ。 私は平生から用意し・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、「そちが身を捨てましても、と云って、ホホホ、何とするつもりかえ。」と云って冷笑すると、女は激して、「イエ、ほんとに身を捨てましても」と・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・叡智を忘れた私のきょうまでの盲目の激情を、醜悪にさえ感じた。 けだものの咆哮の声が、間断なく聞える。「なんだろう。」私は先刻から不審であった。「すぐ裏に、公園の動物園があるのよ。」妹が教えてくれた。「ライオンなんか、逃げ出しちゃ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」 ここに一個または数個と記したのは、同時に二人あるいは三人の異性を恋い慕い・・・ 太宰治 「チャンス」
・・・何を言っても気ちがい扱いで、相手にされないのでは、私は、いっそ沈黙を守る。激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面になりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般市井人の家を営み、その日常生活の形式に於いて、無・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ けれども私は、自身の感覚をいつわることができません。くだらないのです。いまさら、あなたに、なんにも言いたくないのです。 激情の極には、人は、どんな表情をするでしょう。無表情。私は微笑の能面になりました。いいえ、残忍のみみずくになり・・・ 太宰治 「「晩年」に就いて」
・・・虚栄の市 デカルトの「激情論」は名高いわりに面白くない本であるが、「崇敬とはわれに益するところあらむと願望する情の謂いである。」としてあったものだ。デカルトあながちぼんくらじゃないと思ったのだが、「羞恥とはわれに益するところ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・王子は激情の果、いまはもう、すべての表情を失い、化石のように、ぼんやり立ったままでした。 眼前に、魔法の祭壇が築かれます。老婆は風のように素早く病室から出たかと思うと、何かをひっさげてまた現れ、現れるかと思うと消えて、さまざまの品が病室・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・前にヤニングス主演の「激情のあらし」でやはり花火をあしらったのがあった。あの時は嫉妬に燃える奮闘の場面に交錯して花火が狂奔したのでずいぶんうまく調和していたが、今度のではそういう効果はなかったようである。しかし気持ちの転換には相当役に立って・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・その客観のうすら明りのなかに、何とたくさんの激情の浪費が彼女の周囲に渦巻き、矛盾や独断がてんでんばらばらにそれみずからを主張しながら、伸子の生活にぶつかり、またそのなかから湧きだして来ていることだろう。「伸子」で終った一巡の季節は、「二・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
出典:青空文庫