・・・の店をひらいたのは二十五の歳だったが、旦那が半年で死んでしまうと、酒のあとで必ず男のほしくなる体を浮気の機会あるたびに濡らしはじめ、淫蕩的な女となった。何を思ったのか私を掴えても「わては大抵の職業の男と関係はあったが文士だけは知らん」と、意・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ と先生は流し場の水槽のところへ出て、斑白な髪を濡らしながら話した。 東京から来たばかりの高瀬には、見るもの、聞くもの、新しい印象を受けるという風であった。 二人は浴場を離れて復た崖の道を上った。その中途にある小屋へ声を掛けに寄・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・モンの家で食事をなさっていたとき、あの村のマルタ奴の妹のマリヤが、ナルドの香油を一ぱい満たして在る石膏の壺をかかえて饗宴の室にこっそり這入って来て、だしぬけに、その油をあの人の頭にざぶと注いで御足まで濡らしてしまって、それでも、その失礼を詫・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・雨が頬を濡らして呉れておお清浄になったと思えて、うれしかった。成熟した女学生がふたり、傘がなくて停車場から出られず困惑の様子で、それでもくつくつ笑いながら、一坪ほどの待合室の片隅できっちり品よく抱き合っていた。もし傘が一本、そのときの私にあ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・一時止んでいた小雨がまた思い出したようにこぼれて来て口にくわえた巻煙草を濡らした。 最後の隧道を抜けていよいよ上高地の関門をくぐったとき一番に自分の眼に映じた美しい見ものは、昔から写真でお馴染の大正池の眺めではなくて、恰度その時雲の霽間・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・――当人ももうだいぶ好くなったから明日あたりから床を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢を載せて、長い髪を半分濡らして、うんうん呻きながら、枕の上への・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・血の如き葡萄の酒を髑髏形の盃にうけて、縁越すことをゆるさじと、髭の尾まで濡らして呑み干す人の中に、彼は只額を抑えて、斜めに泡を吹くことが多かった。山と盛る鹿の肉に好味の刀を揮う左も顧みず右も眺めず、只わが前に置かれたる皿のみを見詰めて済す折・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・手拭を引さいた細紐を帯がわりにして、縞の着物を尻はし折りにした与太者の雑役が、ズブズブに濡らした雑巾で出来るだけゆっくり鉄格子のこま一つ一つを拭いたりして動いている。 夜前、神明町辺の博士の家とかに強盗が入ったのがつかまった。看守と雑役・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・けれども、棺をいよいよ閉じるという時、私は自分を制せられなくなって涙で顔じゅうを濡らし激しく慟哭した。可愛い、可愛いお父様。その言葉が思わず途切れ途切れに私の唇からほとばしった。どうも御苦労様でした、そういう感動が私の体じゅうを震わすのであ・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・ 彼女は漸く起き上ると、青ざめた頬を涙で濡らしながら歩き出した。彼女の長い裳裾は、彼女の苦痛な足跡を示しつつ緞帳の下から憂鬱に繰り出されて曳かれていった。 ナポレオンの部屋の重々しい緞帳は、そのまま湿った旗のように明方まで動かなかっ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫