・・・ あの大地震に次いで起った火災は、この洋食店の辺も残らず灰にしてしまった。一、二月もたって近辺にぽつぽつバラックが建ち並ぶようになった頃に、思い出して行ってみたが、その店はまだ焼跡のままであった。料理場の跡らしい煉瓦の竈の崩れたのもその・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんと・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ 関東震災に踵を次いで起こった大正十二年九月一日から三日にわたる大火災は明暦の大火に肩を比べるものであった。あの一九二三年の地震によって発生した直接の損害は副産物として生じた火災の損害に比べればむしろ軽少なものであったと言われている。あ・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・ 十三 日本橋その他の石橋の花崗石が、大正十二年の震火災に焼けてボロボロにはじけた痕が、今日でも歴然と残っている。河の上にあって、近所の建物からかなり遠く離れていて、それでどうしてこんなにひどく焼かれたか不思・・・ 寺田寅彦 「鑢屑」
・・・ 伝説によれば水戸黄門が犬を斬ったという寺の門だけは、幸にして火災を逃れたが、遠く後方に立つ本堂の背景がなくなってしまったので、美しく彎曲した彫刻の多いその屋根ばかりが、独りしょんぼりと曇った空の下に取り残されて立つ有様かえって殉死の運・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 例えばいろいろな火災保険であるとか、戦時保険であるとか、また、退職手当というものも、大分使い果してしまっているのであります。別に私たちのところに、何万円もの金があって、それが自由になるなどという人は一般にはないわけです。 モラトリ・・・ 宮本百合子 「幸福について」
・・・昨年の震火災で夥しい書籍が焼けてしまった。これは、直接自分の利害に関係ないことだが私に或る淋しさを与えた。母方の祖父の文庫もこの時完全に失われた。其故、この古家の古本に再び日の目を見せる気になった私の心持の底には、謂わば私心を脱した書籍愛好・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
・・・ この家に移ったとき、火災保険の外交員が訪ねて来た。借家だときいて一時に索然とした表情になったが、思い直して動産保険をすすめた。そのとき、東京市内で保険率の少い区の名を云った。本郷や上落合はその中にこめられていた。保険には入らなかったが・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 私共がききかえす間もなく、「一日に大地震があった後に大火災で、全滅だと云うこっちゃが」 彼は、立ったまま、持って来た号外を声高に読み始めた。この時初めて、私共は、前日の地震が東京からの余波であったことを知った。号外によれば、一・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
・・・ 家は五十一のとき隼町に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜないということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。 お佐代さんは四十五のとき・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫