・・・ 叔母は火箸を握ったまま、ぼんやりどこかへ眼を据えていた。「戸沢さんは大丈夫だって云ったの?」 洋一は叔母には答えずに、E・C・Cを啣えている兄の方へ言葉をかけた。「二三日は間違いあるまいって云った。」「怪しいな。戸沢さ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・さもなければ忘れたように、ふっつり来なくなってしまったのは、――お蓮は白粉を刷いた片頬に、炭火の火照りを感じながら、いつか火箸を弄んでいる彼女自身を見出した。「金、金、金、――」 灰の上にはそう云う字が、何度も書かれたり消されたりし・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そのほか象牙の箸とか、青銅の火箸とか云う先の尖った物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳の縁の交叉した角や、天井の四隅までが、丁度刃物を見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。 修理は、止むを得ず、・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・佐藤の妻は安座をかいて長い火箸を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を噛み合せて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 二 坐ると炭取を引寄せて、火箸を取って俯向いたが、「お礼に継いで上げましょうね。」「どうぞ、願います。」「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気ッちゃありやしない。串戯はよして、謹さん、東・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 「焼火箸を脇の下へ突貫かれた気がしました。扇子をむしって棄ちょうとして、勿体ない、観音様に投げうちをするようなと、手が痺れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍のつぶれ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 蝮の首を焼火箸で突いたほどの祟はあるだろう、と腹じゃあ慄然いたしまして、爺はどうしたと聞きましたら、と手柄顔に、お米は胸がすいたように申しましたが。 なるほど、その後はしばらくこの辺へは立廻りません様子。しばらく影を見ませんか・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――ずり落ちた帯の結目を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと乗掛って、忘八の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の火箸で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの拷掠に、ひッつる肌に青い筋の蜿るのさ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・泥のままのと、一笊は、藍浅く、颯と青に洗上げたのを、ころころと三つばかり、お町が取って、七輪へ載せ、尉を払い、火箸であしらい、媚かしい端折のまま、懐紙で煽ぐのに、手巾で軽く髪の艶を庇ったので、ほんのりと珊瑚の透くのが、三杯目の硝子盃に透いて・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 長火鉢の猫板に片肱突いて、美しい額際を抑えながら、片手の火箸で炭を突ッ衝いたり、灰を平したりしていたが、やがてその手も動かずなる。目は瞬きもやんだように、ひたと両の瞳を据えたまま、炭火のだんだん灰になるのを見つめているうちに、顔は火鉢・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫