・・・この十蔵が事は貴嬢も知りたもうまじ、かれの片目は奸なる妻が投げ付けし火箸の傷にて盲れ、間もなく妻は狂犬にかまれて亡せぬ。このころよりかれが挙動に怪しき節多くなり増さりぬ、元よりかれは世の常の人にはあらざりき。今は三十五歳といえど子もなく兄弟・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・すばしっこい火箸のような、痩せッこつの七五郎が、板の橋を渡って公会堂に様子をさぐりに、ぴょん/\はねとんで行った。「おい、のんでるぞ、のんでるぞ!」 踏みつけられたような笑い方をしながら七五郎は引っかえして来た。「何に、のんでる・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・彼女はそこに置いてある火鉢から細い真鍮の火箸を取って見て、曲げるつもりもなくそれを弓なりに折り曲げた。「おばあさん――またここのお医者様に怒られるぞい」 と三吉は言って、不思議そうにおげんの顔を見ていたが、やがて子供らしく笑い出した・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 名誉職は、そこまで語って、それから火鉢の火を火箸でいじくりながら、しばらく黙っていた。「で? どうしたのです。」と私は、さいそくした。「いたのですか?」「いるも、いないも、」と言って、彼は火箸をぐさと灰に深く突き刺し、「二・・・ 太宰治 「嘘」
・・・このあいだ、ひとりで退屈まぎれに火箸の曲ったのを直そうと思ってかちんかちん火鉢のふちにたたきつけていたら、あなた、女房が洗濯を止し眼つきをかえて私の部屋へかけこんで来ましてねえ、てっきり気ちがいになったと思った、そう言うのですよ。かえって私・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・一日のうちに、何回も何回も、火箸でもって火鉢のふちをたたいてみます。音がよく聞えるかどうか、ためしてみるのです。夜中でも、目が覚めさえすれば、すぐに寝床に腹這いになって、ぽんぽん火鉢をたたいてみます。あさましい姿です。畳を爪でひっかいてみま・・・ 太宰治 「水仙」
・・・私は、火鉢をまえにして坐って、火箸で火をかきまわし、「ここへ坐りたまえ。まだ、火がある。」「え。」どろぼうは、きちんと膝をそろえてかしこまって坐った様子である。「少し、火鉢から、はなれて坐っていたほうがいいかも知れないな。」私は、い・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・(火箸で埋火を掻でも、田舎では、こんな事は珍らしくないんでしょう? 田舎の、普通の、恋愛形式になっているのね、きっと。夜這いとかいう事なんじゃないの? とんでもない、そんな、私は、決して、そんな、失礼な。いいえ、そうでなかったら、か・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・それを買って来て焼け火箸で両方の目玉のまん中に穴を明ける。その時に妙な焦げ臭いにおいがする。それから面の両側の穴に元結いの切れを通して面ひもにするのである。面をかぶるとこの焦げ臭いにおいがいっそうひどい、そうして自分のはき出す呼気で面の内側・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・やっとその一匹を箒でおさえつけたのを私が火箸で少し引きずり出しておいて、首のあたりをぎゅうっと麻糸で縛った。縛り方が強かったのですぐに死んでしまった。その最期の苦悶を表わす週期的の痙攣を見ていた時に、ふと近くに読んだある死刑囚の最後のさまが・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
出典:青空文庫