・・・それで科学者は眼前に現われる現象に対して言わば赤子のごとき無私無我の心をもっていなければならない。止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらり・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・人によると、生涯に一度も無我の境界に点頭し、恍惚の域に逍遥する事のないものがあります。俗にこれを物に役せられる男と云います。かような男が、何かの因縁で、急にこの還元的一致を得ると、非常な醜男子が絶世の美人に惚れられたように喜びます。「意・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・恐しげに光る沢山の刃物、手術のすみきらない内に、自然と眠りが覚めかかってうめいた太い男の声、それから又あの手を真赤にして玩具をいじる様に、人間の内実をいじって居た髭むじゃな医者の顔、あれこれと、自分が無我夢中になる前五六分の間に見た事聞いた・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・元より無我と云う字の解釈にも依りますが、字書通り、我見なきこと、我意なきこと、我を忘れて事をなすと致しましても、結局「我」と云うものを無いと認める事は出来ませんでしょう。 私心ないと云う事、我見のないと云う事は、自分の持って居る或る箇性・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 天心たかく――まぶたひたと瞑ぢて――まぶたひたと瞑ぢて―― 無我の瞬時、魂は自由な飛翔をすると思う。其時に「人」はよくなる。生きる霊魂には斯ういう忘我がなければならない。小細工に理窟で修繕するのではない根からすっかり洗われるのだ。・・・ 宮本百合子 「追慕」
・・・春の、ホコホコと暖かい心持ちのよい日に、春の海を眺め春の山を望みボケの花の中で茫然として無我の境に無我の詩を造る。画工さんはまず自己を救った。すべての物質的人事を超越している。この画かきさんが大なる決心と気概とをもって、霊の権威のために、人・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫