・・・靴が焦げやしませんか?」 保吉の靴はいつのまにかストオヴの胴に触れていたと見え、革の焦げる臭気と共にもやもや水蒸気を昇らせていた。「それも君、やっぱり伝熱作用だよ。」 宮本は眼鏡を拭いながら、覚束ない近眼の額ごしににやりと保吉へ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・白熱した日盛に、よくも羽が焦げないと思う、白い蝶々の、不意にスッと来て、飜々と擦違うのを、吃驚した顔をして見送って、そして莞爾……したり……そうした時は象牙骨の扇でちょっと招いてみたり。……土塀の崩屋根を仰いで血のような百日紅の咲満ちた枝を・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ しゅうど 美わしき菫の種と、やさしき野菊の種と、この二つの一つを石多く水少なく風勁く土焦げたる地にまき、その一つを春風ふき霞たなびき若水流れ鳥啼き蒼空のはて地に垂るる野にまきぬ。一つは枯れて土となり、一つは若葉・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・鏡のわくはわずかに焦げ、丸太の端よりは怪しげなる音して湯気を吹けり。童らはかわるがわる砂に頭押しつけ、口を尖らして吹けどあいにくに煙眼に入りて皆の顔は泣きたらんごとし。 沖ははや暗うなれり。江の島の影も見わけがたくなりぬ。干潟を鳴きつれ・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・『その時は日がもうよほど傾いて肥後の平野を立てこめている霧靄が焦げて赤くなってちょうどそこに見える旧噴火口の断崖と同じような色に染まった。円錐形にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯れ草が一面に夕陽を帯び、空気が水のように澄・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ごもり春の大野を焼く人は焼きたらぬかもわが心焼くかくのみにありけるものを猪名川の奥を深めて吾が念へりける 死ぬほどの恋も容易に口に出さず、逢いたくなっては夢遊病者のように山川を越え、思いに焦げては大野も燃えよ、忠実でもなかった人・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 彼は、屈辱と憤怒に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵をかえした。 つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そこには豚の脂肪や、キャベツや、焦げたパン、腐敗した漬物の臭いなどが、まざり合って、充満していた。そこで働いている炊事当番の皮膚の中へまでも、それ等の臭いはしみこんでいるようだった。「豚だって、鶏だってさ、徴発して来るのは俺達じゃないか・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・顔が黒く日に焦げて皺がよっている百姓の嗄れた量のある声が何か答えているのがこっちまで聞えてきた。その声は、ほかの声を消してしまうように強く太くひびいた。 掠めたものを取りあっていた兵士達は、口を噤んで小舎の方を見た。十人ばかりの百姓が村・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・なるほどなるほど、味噌は巧く板に馴染んでいるから剥落もせず、よい工合に少し焦げて、人の※意を催させる香気を発する。同じようなのが二枚出来たところで、味噌の方を腹合せにしてちょっと紙に包んで、それでもう事は了した。 その翌日になった。照り・・・ 幸田露伴 「野道」
出典:青空文庫