・・・ 士官は焦躁にかられだして兵士を呶鳴りつけた。「ハイ、うちます。」 また、弾丸が空へ向って呻り出た。「うてッ! うてッ!」「ハイ。」 濃厚な煙が流れてきた。士官も兵士も眼を刺された。煙ッたくて涙が出た。 ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 彼は背に火がついたような焦燥を感じた。そして、心で日本刀の味を知れ! と呟いた。 ――入院患者をつれてきた上等兵の話はそういうことだった。 ついすると、ロシアの娘は、中尉がさきに手をつけていた、その女だったかも知れなかった。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 井村は、自分にむけられた三本脚の松ツァンの焦燥にギョロ/\光った視線にハッとした。「うちの市三、別条なかったか。」 市三は、影も形も彼の眼に這入らなかった。井村は、眼を伏せて、溜息をして、松ツァンの傍を病院の方へ通りぬけた。・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでもやって来たかと。私は屋外からいろいろなことを聞いて来る三郎を見るたびに、ちょうど強い雨にでもぬれな・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪えがたい焦躁に、身も世もあらず、もだえ、のたうちまわっているのである。隣の部屋からキンキン早すぎる回転の安蓄音器が、きしりわめ・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・ことにも、それが芸術家の場合、黒煙濛々の地団駄踏むばかりの焦躁でなければなりません。芸術家というものは、例外なしに生れつきの好色人であるのでありますから、その渇望も極度のものがあるのではないかと、笑いごとでは無しに考えられるのであります。殊・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・青春は人生の花だというが、また一面、焦燥、孤独の地獄である。どうしていいか、わからないのである。苦しいにちがいない。 なるほど、と私は首肯し、その苦しさを持てあまして、僕のところへ、こうしてやって来るのかね、ひょっとしたら太宰も案外いい・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・そのくせ、その時分の私の生活は『田舎教師』を書くにはふさわしくない気分に満たされていた。焦燥と煩悶、それに病気もしていて、幾度か書きかけては、床についた。 しかし、八月いっぱいには、約その三分の二を書き上げることができた。で、原稿を関君・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・そうして女の心の中に刻々につのって行く不安と焦燥をこくめいに映出するのである。最後の場面ではこの兵士の行列は前とは直角だけ回転している。すなわち観客を背にして遠い砂漠の果ての地平線に向かって進行する。そうする事によってこのドラマの行く手の運・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・自分の見る点では、内匠頭はいよいよ最後の瞬間まではもっとずっと焦躁と憤懣とを抑制してもらいたい。そうして最後の刹那の衝動的な変化をもっと分析して段階的加速的に映写したい。それから上野が斬られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫