・・・相川は今その言葉を思出して、原をじりじり年をとる方に、自分をドシンと陥没ちる方に考えて見て笑ったが、然し友達もああ変っていようとは思いがけなかった。原ともあろうものが今から年をとってどうする、と彼は歩きながら嘆息した。実際相川はまだまだ若い・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・宏い、心に喰い入るような空の下には、唯、物を云わない自然と、こそりともせず坐っている唖の娘とがいるばかりでした――自然は、燦き渡る太陽の光の下に、スバーは、一本の小さい樹が影を落している下に―― 然し、此スバーにも、まるで友達がないと云・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・というのは、実を言えば貴下と吉田さんにはそういった苦言をいつの日か聞かされるのではないかと、かねて予感といった風のものがあって、この痛いところをざくり突かれた形だったからです。然し、そう言いながらも御手紙は、うれしく拝見いたしました。そうし・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・作者は苔城松子雁戯稿となせるのみで、何人なるやを詳にしない。然しこの書は明治十年西南戦争の平定した後凱旋の兵士が除隊の命を待つ間一時谷中辺の寺院に宿泊していた事を記述し、それより根津駒込あたりの街の状況を説くこと頗精細である。是亦明治風俗史・・・ 永井荷風 「上野」
・・・彼等の此の異様な姿がぞろぞろと続く時其なかにお石が居れば太十がそれに添うて居ないことはない。然し太十は四十になるまで恐ろしい堅固な百姓であった。彼は貧乏な家に生れた。それで彼は骨が太くなると百姓奉公ばかりさせられた。彼はうまく使えば非常な働・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・を読んで文学というものを面白く感じ、自分もやって見ようという気がしたので、それを亡くなった兄に話して見ると、兄は文学は職業にゃならない、アッコンプリッシメントに過ぎないものだと云って、寧ろ私を叱った。然しよく考えて見るに、自分は何か趣味を持・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられる。然しだ、私は言い訳をするんじゃないが、世の中には迚も筆では書けないような不思議なことが、筆で書けることよりも、余っ程多いもんだ。たとえ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・特務曹長「なるほどナポレオンポナパルドの首のしるしがついて居ります。然し閣下は普仏戦争に御参加になりましたのでありますか。」大将「いいや、六十銭で買ったよ。」特務曹長「なるほど、実に立派であります。六十銭では安すぎます。」大・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・各々もとめるところの形は皆ちがいましょうけれど、私達の理想とするものは、愛と平和の融合を措いてこの世の楽園は考えられないと思います。然し常にこの世に争闘が絶えないと同時に、それは実現し難いものだと思います。例えば親子間の愛――この世にたった・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束ない事が、一方から見れば、是非共為遂げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。 高崎では踪跡が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町の政淳寺に山本家・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫