・・・彼の顔は見渡した所、一座の誰よりも日に焼けている。目鼻立ちも甚だ都会じみていない。その上五分刈りに刈りこんだ頭は、ほとんど岩石のように丈夫そうである。彼は昔ある対校試合に、左の臂を挫きながら、五人までも敵を投げた事があった。――そういう往年・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ Mは膝ほどある水の中に幾分か腰をかがめたなり、日に焼けた笑顔をふり向けて見せた。「君もはいれよ。」「僕は厭だ。」「へん、『嫣然』がいりゃはいるだろう。」「莫迦を言え。」「嫣然」と言うのはここにいるうちに挨拶ぐらいは・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・「そうれまんだ肝べ焼けるか。こう可愛がられても肝べ焼けるか。可愛い獣物ぞい汝は。見ずに。今にな俺ら汝に絹の衣装べ着せてこすぞ。帳場の和郎(彼れは所きらわず唾が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。白痴奴。俺らが事誰・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ぼくはもうすっかり焼けてしまうと思った。明日からは何を食べて、どこに寝るのだろうと思いながら、早くみんなの顔が見たさにいっしょうけんめいに走った。 家のすこし手前で、ぼくは一人の大きな男がこっちに走って来るのに会った。よく見るとその男は・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・ 内地の大都会の人は、落し物でも探すように眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。焼け失せた函館の人もこの卑い根性を真似ていた。札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く。小樽の人はそうでない、路上の落・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途に窮するため、拳を握り、足を爪立てているのである。 いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米薪さえ覚束ない生活の悪処に臨んで、―・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・聨隊長はこの進軍に反対であったんやけど、止むを得ん上官の意志であったんやさかい、まア、半分焼けを起して進んで来たんや。全滅は覚悟であった。目的はピー砲台じゃ、その他の命令は出さんから、この川を出るが最後、個々の行動を取って進めという命令が、・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そうして、家が失くなったり、街が焼けてしまうと、あわてて大急ぎで、俺たちのいる方へやってくる。そんなにまで俺たちは、人間のために尽くしているのに、ありがたいとは思っていない。」と、ひのきの木は、話しかけました。 くるくるとした、黒い、鋭・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・ 追分は軽井沢、沓掛とともに浅間根腰の三宿といわれ、いまは焼けてしまったが、ここの油屋は昔の宿場の本陣そのままの姿を残し、堀辰雄氏、室生犀星氏、佐藤春夫氏その他多くの作家が好んでこの油屋へ泊りに来て、ことに堀辰雄氏などは一年中の大半をこ・・・ 織田作之助 「秋の暈」
出典:青空文庫