・・・赤く焼けている瓦斯煖炉の上へ濡れて重くなった下駄をやりながら自分は係りが名前を呼ぶのを待っていた。自分の前に店の小僧さんが一人差向かいの位置にいた。下駄をひいてからしばらくして自分は何とはなしにその小僧さんが自分を見ているなと思った。雪と一・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・年ごろは三十二三でもあろうか、日に焼けて黒いのと、垢に埋もれて汚ないのとで年もしかとは判じかねるほどであった。ただ汚ないばかりでなく、見るからして彼ははなはだやつれていた、思うに昼は街の塵に吹き立てられ、夜は木賃宿の隅に垢じみた夜具を被るの・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・目の前に自分の子どもの手が霜焼けている。新聞に支那の洪水の義捐の募集が出ている。手袋を買ってやる金を新聞社に送るべきか。リップスによればそうすべきだ。しかし一方はわが子で目の前に見、他方は他国でうわさに聞くのみ。情緒の上には活々とした愛と動・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・追い下へ落ちてついにふたりが水と魚との交を隔て脈ある間はどちらからも血を吐かせて雪江が見て下されと紐鎖へ打たせた山村の定紋負けてはいぬとお霜が櫛へ蒔絵した日をもう千秋楽と俊雄は幕を切り元木の冬吉へ再び焼けついた腐れ縁燃え盛る噂に雪江お霜は顔・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。悲しい追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・そのうちに老人の日に焼けた顔が忽ち火のように赤くなった。その赤い色は、上着の襟の開いている処に見えている、胸のあたりから顔へ上がって行ったのである。それと同時に胸に一ぱい息を溜めた。そしてその息を唇から外へ洩らすまいとしたが、とうとう力のな・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それが手引となって、東京、横浜、横須賀なぞでは、たちまち一面に火災がおこり、相模、伊豆の海岸が地震とともにつなみをかぶりなぞして、全部で、くずれたおれた家が五万六千、焼けたり流れたりしたのが三十七万八千、死者十一万四千、負傷者十一万五千を出・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・たちが青森市に疎開して、四箇月も経たぬうちに、かえって青森市が空襲を受けて全焼し、私たちがたいへんな苦労をして青森市へ持ち運んだ荷物全部を焼失してしまい、それこそ着のみ着のままのみじめな姿で、青森市の焼け残った知合いの家へ行って、地獄の夢を・・・ 太宰治 「おさん」
・・・それでも、あの大きな木が、全部は焼けなくてしあわせであった。たとえば池の北側に、大きなまっ黒く茂った枝を水面近くまでのばしている、あの木などもこの池の景色をスペシファイする一つのだいじな要素になっているのだが、あれなどの助かったのはしあわせ・・・ 寺田寅彦 「池」
・・・ 大正十二年の震災にも焼けなかった観世音の御堂さえこの度はわけもなく灰になってしまったほどであるから、火勢の猛烈であったことは、三月九日の夜は同じでも、わたくしの家の焼けた山の手の麻布あたりとは比較にならなかったものらしい。その夜わたく・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫