・・・つくつくほうしが八釜しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭しく子規の家を尋ねたが知らぬとの答故少々意外に・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・老衰して黒っぽくなりその上に煤煙によごれた古葉のかたまり合った樹冠の中から、浅緑色の新生の灯が点々としてともっているのである。よく見ると、場所によってこの新芽のよく出そろったところもあり、また別の町ではあまり目立たないところもある。さらにま・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・こゝは稍静かなれど紅塵ようやく深く鉄道構内の煤煙風に迷うもうるさし。踏切を越えて通りかゝりし鉄道馬車にのる。乗客多くて坐る余地もなければ入口に凭れて倒れんとする事幾度。公園裏にて下り小路を入れば人の往来織るがごとく、壮士芝居あれば娘手踊あり・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・私はしばらく大阪の町の煤煙を浴びつつ、落ち着きのない日を送っていたが、京都を初めとして附近の名勝で、かねがね行ってみたいと思っていた場所を三四箇所見舞って、どこでも期待したほどの興趣の得られなかったのに、気持を悪くしていた。古い都の京では、・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられた希臘の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧の中に己れを動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いて・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・考えると煤煙などは俗なものであります。世の中に何が汚ないと云って石炭たきほどきたないものは滅多にない。そうして、あの黒いものはみんな金がとりたいとりたいと云って煙突が吐く呼吸だと思うとなおいやです。その上あの煙は肺病によくない。――しかし私・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・糠粒を針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵と煤煙を溶かして濛々と天地を鎖す裏に地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。 無我夢中に宿に着いて、主人に今日は塔を見物して来たと話したら、主人が鴉が五羽いたでしょうと云う。・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 作家森田草平が平塚らいてうとの恋愛事件をとりあつかった「煤煙」という小説をかいたのは明治の末でした。ダヌンチオの「死の勝利」に影響されて当時の青鞜社風の女性の自我の覚醒と、対立者としての男性および恋愛との格闘を主題とした「煤煙」は自然・・・ 宮本百合子 「心から送る拍手」
・・・ ところが、他の一方には、同じ東京という一つの都会であっても全く異った自然の眺めをもち、あるいはほとんど自然のながめと呼ぶこともできないような煤煙だらけの空、油の浮いて臭い河面、草も生えない泥土の中に生きているおびただしい勤労生活者の人・・・ 宮本百合子 「自然描写における社会性について」
・・・ 赤い小松 煤煙のためだか鉄道の線路に沿うた所に赤い小松を沢山見た。 背は低く横に広く好い形に育った小松がそのみどりの葉の所々を赤茶色に染めて居るのは木のために良い悪いなんかは別にしてただ奇麗なものだ、そして又極・・・ 宮本百合子 「旅へ出て」
出典:青空文庫