・・・ 浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであろう。 その頃、見返柳の立っていた大門外の堤に佇立んで、東の方を見渡すと、地方今戸町の低い人家の屋根を・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・e の根本の力を私に授けてくれたものは、仏蘭西人が Sarah Bernhardt に対し伊太利亜人が Eleonora Duse に対するように、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の若衆の溢れ漲る熱情の感化に外ならない。哥沢節を産んだ江・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・描き出ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁えぬほどの熱情をもって文をやる男よりもたしかなところがあるかも知れぬ。 吾が精神を篇中の人物に一図に打ち込んで、その人物になりすまして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なもの・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便となるものなり。俳句以外に蕪村の文学として見るべきものもこれのみ。蕪村の熱情を現わしたるものもこれのみ。春風馬堤曲とは支那の曲名を真似たるものにて、そのかく名づけしゆえんは蕪村の書簡に詳らかなり。書・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・日本の婦人ばかりが、その熱情さえもたないと、誰が云い得よう。人民、女性の歴史にとって屈辱のしるしのように強いても握らされた白と赤との日本の旗は、今日、日本の婦人自身の手のなかで握り直されなければならない。旗は、よろこびと幸福とへ向って生活の・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・けれども、じっと見るとどんな熱情的な恋愛をしている人でも、人間として他方面の必然な生活条件は満しています。生活の大河は、その火花のような恋、焔のような愛を包括して怠みなく静かに流れて行く。確かに重大な、人間の霊肉を根本から震盪するものではあ・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦り切れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・脅迫である。熱情である。嘘である。何故なら、これらは分裂を統率する最も壮大な音律であるからだ。何物よりも真実を高く捧げてはならない。時代は最早やあまり真実に食傷した。かくして、自然主義は苦き真実の過食のために、其尨大な姿を地に倒した。嘘ほど・・・ 横光利一 「黙示のページ」
・・・並みはずれた感激に対する熱情もようやく醒めて来た。ここにニイチェのいわゆる Die Trene gegen die Vorzeit が萌す。 ついに彼女は偉大なる芸術の伝統に対する Heimweh を起こした。古来の芸術の手法を恋い初め・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・大塚先生の講義はその熱烈な好学心をひしひしと我々の胸に感じさせ、我々の学問への熱情を知らず知らずに煽り立てるようなものであったが、それに対して岡倉先生の講義は、同じく熱烈ではあるがしかし好学心ではなくして芸術への愛を我々に吹き込むようなもの・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫