・・・彼は幾年となく思出したことも無い生れ故郷の空で遠い山のかなたに狐火の燃えるのを望んだことを思出した。気味の悪い夜鷹が夕方にはよく頭の上を飛び廻ったことを思出した。彼は初めて入学した村の小学校で狐がついたという生徒の一人を見たことを思出した…・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・八月の日の光は窓の外に満ちて、家々の屋根と緑葉とに映り輝いて、この東京の都を壮んに燃えるように見せた。見るもの聞くものは烈しく原の心を刺激したのである。原は相川と一緒に電車を下りた時、馳せちがう人々の雑沓と、混乱れた物の響とで、すこし気が遠・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・昔天国の門に立たせて置かれた、あの天使のように、イエスは燃える抜身を手にお持になって、わたくしのいる檻房へ這入ろうとする人をお留なさると存じます。わたくしはこの檻房から、わたくしの逃げ出して来た、元の天国へ帰りたくありません。よしや天使が薔・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・紐をからんでいる手の指が燃えるような心持がする。包みの重りが幾キログランムかありそうな心持がする。ああ。恋しきロシアよ。あそこには潜水夫はいない。町にも掃除人はいない。秘密警察署はあっても、外の用をしている。極右党も外国の侯爵に紙包みを返し・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・理論物理のような常識に遠い六かしい事を講義して、そして聴衆を酔わせ得るのは、彼自身の内部に燃える熱烈なものが流れ出るためだと云っている。彼の講義には他の抽象学者に稀に見られる二つの要素、情調と愛嬌が籠っている、とこの著者は云っている。講義の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・石榴の花と百日紅とは燃えるような強い色彩を午後の炎天に輝し、眠むそうな薄色の合歓の花はぼやけた紅の刷毛をば植込みの蔭なる夕方の微風にゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴の音――自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・「火が燃えるときは焔をつくる。焔というものはよく見ていると奇体なものだ。それはいつでも動いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普通の焚火の焔なら橙いろをしている。けれども木によりまたその場処によって・・・ 宮沢賢治 「学者アラムハラドの見た着物」
・・・が、行動性にとみ、民主精神に燃える彼女に、敗れはてたドイツの姿はどううつっているであろう。ことばにつくせない犠牲をはらったドイツの民主主義のために、エリカ・マンの美しいエネルギーは、まだまだ休む暇はあたえられていないのである。 ふかい犠・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 真赤なリボンの幾つかが燃える。 娘の一人が口に銜んでいる丹波酸漿を膨らませて出して、泉の真中に投げた。 凸面をなして、盛り上げたようになっている水の上に投げた。 酸漿は二三度くるくると廻って、井桁の外へ流れ落ちた。「あ・・・ 森鴎外 「杯」
・・・ ツァウォツキイは薔薇色の火の中から、赤い燃える火の中へ往った。そこで永遠に烹られて、痛がって、吠えているのだろう。 ツァウォツキイの話はこれでしまいだ。 話が代って娑婆の事になる。娘は部屋に帰って母に話した。「おっ母さん。あの・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫