・・・ その人に傲らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都勤番をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益、熱心に推服の意を洩し始めた。その子供ら・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・翁も、もう提の水で、泥にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような容子である。「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」「御冗談で。」「まったくさ。お・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・そこが一部の世間には物足りないらしいが、それは不服を言う方が間違っている。菊池の小説は大味であっても、小説としてちゃんと出来上っている。細かい味以外に何もない作品よりどの位ましだか分らないと思う。 菊池はそういう勇敢な生き方をしている人・・・ 芥川竜之介 「合理的、同時に多量の人間味」
・・・いや、怪しいと云ったのでは物足りない。私にはその顔全体が、ある悪意を帯びた嘲笑を漲らしているような気さえしたのである。「どうです、これは。」 田代君はあらゆる蒐集家に共通な矜誇の微笑を浮べながら、卓子の上の麻利耶観音と私の顔とを見比・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・ 僕はその大エネルギと絶対忍耐性とを身にしみ込むほど羨ましく思ったが、死に至るまで古典的な態度をもって安心していたのを物足りないように思った。デカダンはむしろ不安を不安のままに出発するのだ。 こんな理屈ッぽい考えを浮べながら筆を走ら・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ そうすると私もそれが嬉れしいような気がして、その後はたびたび遊びに出かけて、おさよの顔を見ないと物足りないようになりました。 そのうち、売卜者から女難のことを言われ、母からは女難ということの講釈を聞かされましたので、子供心にも、も・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・何をこしらえて食わせ、何を買って来てあてがっても、この子はまだ物足りないような顔ばかりを見せた。私の姉の家のほうから帰って来たこの子は、容易に胸を開こうとしなかったのである。上に二人も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたら・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 藤さんが行ってしまったあとは何やら物足りないようである。たんぽぽを机の上に置く。手紙はもう書きたくない。藤さんがもう一度やってこないかと思う。ちぎった書き崩しを拾って、くちゃくちゃに揉んだのを披げて、皺を延ばして畳んで、また披げて、今・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・それだけに肩も凝らないがまたどっちもつかずで物足りない気もする。 汽車の中で揺られている俘虜の群の紹介から、その汽車が停車場へ着くまでの音楽と画像との二重奏がなかなくうまく出来ている。序幕としてこんなに渾然としたものは割合に少ないようで・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・ しかし、話の筋が通らなくては物足りないという観客が多数にあるかもしれない。それならばかつて漱石虚子によって試みられた「俳体詩」のようなものを作れば作れなくはない。 ほんとうを言えば映画では筋は少しも重要なものでない。人々が見ている・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫