・・・そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳いてた。それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。男も女も、皆上品で慎み・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ聞こえそうな寂寥を、鈍くつんざいていた。 安岡は、耳だけになっていた。 プツッ! と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。腐屍の臭いが、安岡・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・己は人工を弄んだために太陽をも死んだ目から見、物音をも死んだ耳から聴くようになったのだ。己は何日もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず、浅い楽小さい嘆に日を送って、己の生涯は丁度半分はまだ分らず、半分はもう分らなくなって、その奥の・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・さまざまな恐ろしい物音を聞く。それは豚の外で鳴ってるのか、あるいは豚の中で鳴ってるのか、それさえわからなくなった。そのうちもういつか朝になり教舎の方で鐘が鳴る。間もなくがやがや声がして、生徒が沢山やって来た。助手もやっぱりやって来た。「・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・ 初夏の若葉こそ曇り日に照っているが、駅の黒い柵の裏から直ぐ荒漠とした原野が連っている物音もせぬ小駅が白岡であった。ひっそり砂利を敷きつめた野天に立つ告知板の黒文字 しらおか 寂しい駅前の光景が柔かく私の心を押した。「白岡ですよ」・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・ 隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のように往き来して、隅々まで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、籠・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 階段の上では、女の子は一層高く笑って面白がった。「エヘエヘエヘエヘ。」 物音を聞きつけて灸の母は馳けて来た。「どうしたの、どうしたの。」 母は灸を抱き上げて揺ってみた。灸の顔は揺られながら青くなってべたりと母親の胸へつ・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・なんだかそれが自分に対してよそよそしい、自分に敵する物の物音らしく思われる。どうも大勢の人が段々自分の身に近寄って来はしないかというような心持になる。闇が具体的になって来るような心持になる。そこで慌ただしげにマッチを一本摩った。そして自分の・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・お手をお組みなされ、暫く無言でいらっしゃる、お側へツッ伏して、平常教えて下すった祈願の言葉を二た度三度繰返して誦える中に、ツートよくお寐入なさった様子で、あとは身動きもなさらず、寂りした室内には、何の物音もなく、ただ彼の暖炉の明滅が凄さを添・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ 霧、煙、ざわざわとした物音、荒々しい叫び声、息の詰まるような黄いろい塵埃。何とも言いようのない沈んだ心持ちが人々を襲って来る。女優の衣裳箱の調べが済むまでにはずいぶん永い時間が掛かった。バアルは美しい快活な少女を捕えてむだ話をしていた・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫