・・・文芸を三、四年間放擲してしまうのは、いささかの狐疑も要せぬ。 肉体を安んじて精神をくるしめるのがよいか。肉体をくるしめて精神を安んずるのがよいか。こう考えて来て自分は愉快でたまらなくなった。われ知らず問題は解決したと独語した。 ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・黒眼がち、まじめそうな細面の女店員が、ちらと狐疑の皺を眉間に浮べた。いやな顔をしたのだ。嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、つくれなかった。薬品は、冷く手渡された。おれたちのうしろ姿を、背伸びして見ている。それを知っていながら、嘉七は、わ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・私は尚も、しつこく狐疑した。甚だ不安なのである。「ああ、陸の上は不便だ。」少年はアンダアシャツを頭からかぶって着おわり、「バイロンは、水泳している間だけは、自分の跛を意識しなくてよかったんだ。だから水の中に居ることを好んだのさ。本当に、・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・かつて叡智に輝やける眉間には、短剣で切り込まれたような無慙に深い立皺がきざまれ、細く小さい二つの眼には狐疑の焔が青く燃え、侍女たちのそよ風ほどの失笑にも、将卒たちの高すぎる廊下の足音にも、許すことなく苛酷の刑罰を課した。陰鬱の冷括、吠えずし・・・ 太宰治 「古典風」
・・・の話で、精神的な高い共鳴と信頼から生れた愛情でもなし、また、お互い同じ祖先の血筋を感じ合い、同じ宿命に殉じましょうという深い諦念と理解に結ばれた愛情でもないという理由から、この王子の愛情の本質を矢鱈に狐疑するのも、いけない事です。王子は、心・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 結局は、やればやり得る学位を、無用な狐疑や第二義的な些末な考査からやり惜しみをするということが、こういう不祥事やあらゆる依怙沙汰の原因になるのである。たとえ多少の欠点はあるとしても、およそ神様でない人間のした事で欠点のないものは有り得・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・作者が恋愛した人との現実で苦しんでいた、人生に対する対手の狐疑な生活経験からたくわえられたものであった。作者が重い比重で自分の存在にのしかかって来て、深い悲しみを与えられた人間のそういう気持を、資本主義社会の逆境で歪んで来た人間性においてと・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・を建設しようとする本性が伸張されなければならないいまになっても、しいられてできた内部抵抗の癖は、そこまで心情を脱却させないで、これを、民主主義への懐疑、政治的・芸術的良心への疑惑、人間性発展の確信への狐疑として理屈ありげに表現させている点に・・・ 宮本百合子 「現代の主題」
・・・多くのインテリゲンチアが、自分たちはこれでいいのだと自身にいいきかせつつ、自身の思考力を疑ったり、その思考生活を狐疑したりしている間に立って、横光は処女作「日輪」にもすでにうかがえる生活力の強引さで、自分の独断を強引に文学の中に具体化しよう・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
出典:青空文庫