・・・私はこの意外な答に狼狽して、思わず舷をつかみながら、『じゃ君も知っていたのか。』と、際どい声で尋ねました。三浦は依然として静な調子で、『君こそ万事を知っていたのか。』と念を押すように問い返すのです。私『万事かどうかは知らないが、君の細君と楢・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 保吉は大いに狼狽した。ロックフェラアに金を借りることは一再ならず空想している。しかし粟野さんに金を借りることはまだ夢にも見た覚えはない。のみならず咄嗟に思い出したのは今朝滔々と粟野さんに売文の悲劇を弁じたことである。彼はまっ赤になった・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ 田口一等卒はこう云うと、狼狽したように姿勢を正した。同時に大勢の兵たちも、声のない号令でもかかったように、次から次へと立ち直り始めた。それはこの時彼等の間へ、軍司令官のN将軍が、何人かの幕僚を従えながら、厳然と歩いて来たからだった。・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・階級といい習慣といい社会道徳という、我が作れる縄に縛られ、我が作れる狭き獄室に惰眠を貪る徒輩は、ここにおいて狼狽し、奮激し、あらん限りの手段をもって、血眼になって、我が勇敢なる侵略者を迫害する。かくて人生は永劫の戦場である。個人が社会と戦い・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・「この前の時間にも、に書いて消してをまた消して(颶風なり、と書いた、やっぱり朱で、見な…… しかも変な事には、何を狼狽たか、一枚半だけ、罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これとしたぜ。」 と指す指が、ひッつりのように、びくりとし・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・唇をぎゅっと歪めた。狼狽をかくそうとするさまがありありと見えた。それを見ると、私もまた、なんということもなしに狼狽した。 やがて女は帯の間へさしこんでいた手を抜いて、不意に私の肩を柔かく敲いた。「私を尾行しているのんですわ。いつもあ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・て氷のかいたのをのせ、その上から車の心棒の油みたいな色をした、しかし割に甘さのしつこくない蜜をかぶせて仲々味が良いので、しばしば出掛け、なんやあの人男だてらにけったいな人やわという娘たちの視線を、随分狼狽して甘受するのである。 五年前、・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・の作者などが出現すると、その素人の素直さにノスタルジアを感じて、狼狽してこれを賞讃しなければならぬくらい、日本の文学は不逞なる玄人の眼と手をもって、近代小説の可能性をギリギリまで追いつめたというのか。「面白い小説を書こうとしていたのはわれわ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・スルト其奴が矢庭にペタリ尻餠を搗いて、狼狽た眼を円くして、ウッとおれの面を看た其口から血が滴々々……いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは其而已でなく、其時ふッと気が付くと、森の殆ど出端の蓊鬱と生茂った山査子の中に、居るわい、敵が。大きな・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・と、こういた場合にもあまり狼狽した様子を見せない弟は、こう慰めるように言って、今度は行李を置いてFと二人で出て行った。 が翌朝十時ごろ私は寝床の中で弟からの電報を受け取ったが、チチブジデキタ――という文句であった。それで昨夜チチシスのシ・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫