・・・ その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴が号外、悲しげに浦を駈け廻って、蒼海の浪ぞ荒かりける。明治三十九年年一月 泉鏡花 「海異記」
・・・ 寂しく微笑むと、掻いはだけて、雪なす胸に、ほとんど玲瓏たる乳が玉を欺く。「御覧なさい――不義の子の罰で、五つになっても足腰が立ちません。」「うむ、起て。……お起ち、私が起たせる。」 と、かッきと、腕にその泣く子を取って、一・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・室を隔てながら家を整したりし頃、いまだ近藤に嫁がざりし以前には、謙三郎の用ありて、お通に見えんと欲することあるごとに、今しも渠がなしたるごとく、籠の中なる琵琶を呼びて、しかく口笛を鳴すとともに、琵琶が玲瓏たる声をもて、「ツウチャン、ツウチャ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・よく見ると、そのようにおおらかな、まるで桃太郎のように玲瓏なキリストのからだの、その腹部に、その振り挙げた手の甲に、足に、まっくろい大きい傷口が、ありありと、むざんに描かれて在る。わかる人だけには、わかるであろう。私は、堪えがたい思いであっ・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・つい、近ごろにアインシュタインが突然第二の扉を蹴開いてそこに玲瓏たる幾何学的宇宙の宮殿を発見した。しかし第一の扉を通過しないで第二の扉に達し得られたかどうかは疑問である。 この次の第三の扉はどこにあるだろう。これはわれわれには全然予想も・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの謳ったように、神の声と共に渾沌は消え、闇の中に隠れた自然の奥底はその帷帳を開かれて、玲瓏たる天界が目前に現われたようなもので・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・霊山の雲霧のごとく立昇る湯気の中に、玲瓏玉を溶かせるごとき霊泉の中に紅白の蓮華が一時に咲き満ちたような感じがしたのであった。これは官能的よりむしろエセリアルであった。 翌朝は宿で元日の雑煮をこしらえるのに手まがとれた。汽車の時間が迫った・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。 貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳はこれを聘せんとして侍臣をして命を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきを歎き、意外の報酬を得て思わず打・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・人類の誇りである智慧さえ、玲瓏無垢な幸福をつくるために役立てられるというより、死力をつくして黒煙を噴き出し火熱をやきつかせるために駆使されているようではないか。 目前の凄じい有様にきもをひやされて、人々はこれらの現実の中に幸福はないと結・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
出典:青空文庫