・・・殊に、妻の眼が第二の私の顔を、甘えるように見ているのを知った時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底当時の私の位置を、再現するだけの勇気がございません。私は思わず、友人の肘をとらえたなり、放心したように往来へ立ちすくんでしまい・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念がよく聞えた。いやが上に、それも可哀で、その、いじらしさ。「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」 再び巨榎の翠の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視た。 水にも、満・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ と、娘は甘えるように、「――男って皆そんなンでしょう……?」「そりゃ君の知ってる男だけの話だ」「…………」「莫迦だなア、君は……。僕が好きでもないのに、そんなことをいう奴があるか。さアもう寝よう」 小沢はくるりと娘・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・と聞きたる辰弥は、迂遠極まる空理の中に一生を葬る馬鹿者かとひそかに冷笑う。善平はさらに罪もなげに、定めてともに尊敬し合いたることと、独りほくほく打ち喜びぬ。早くお土産を見せて下さいな。と甘えるごとく光代はいう。 ここでは落ちついて談話も・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と小母さんが笑う。この細工は床屋の寅吉に泣きついてさせたのだという。章坊は、「兄さんを写してあげるんだから、よう、炬燵から出てくださいよ」と甘えるように言うかと思うと、「じきです。じき写ります」と、まじめに写真やのつもりでいる。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・前にも、それは申しましたが、「尊敬して居ればこそ、安心して甘えるのだ。」という日本の無名の貧しい作家の、頗る我儘な言い訳に拠って、いまは、ゆるしていただきます。冗談にもせよ、人の作品を踏台にして、そうして何やら作者の人柄に傷つけるようなスキ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は、あなたに甘える事が、どうしても出来なくなりました。あなたは、生れながらの「作家」でした。私には、野暮な俗人というしっぽが、いつまでもくっついていて、「作家」という一天使に浄化する事がどうしても出来ません。 私のいまの仕事は、旧約聖・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・男は、甘えるように微笑みながらていねいにお辞儀をして、しずかに帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。翌る朝、・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、精神病院に入院させた。高橋は静かに、謂わば、そろそろと、狂っていったのである。味わいの深い狂いかたであると思惟いたします。ああ。あなたの小・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・本当に私は、幼少の頃から礼儀にばかりこだわって、心はそんなに真面目でもないのだけれど、なんだかぎくしゃくして、無邪気にはしゃいで甘える事も出来ず、損ばかりしている。慾が深すぎるせいかも知れない。なおよく、反省をして見ましょう。 紀元二千・・・ 太宰治 「十二月八日」
出典:青空文庫