・・・そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇かかって何してるのや」こんな口を利いた。 柳吉は二十歳の蝶・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・遊覧客や病人の眼に触れ過ぎて甘ったるいポートワインのようになってしまった海ではない。酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。波のしぶきが降って来る。腹を刔るような海藻の匂いがする。そのプツプツした空気、野獣の・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・とを気がつかぬらしい。お光が居れば母もと覗がったが女はお光一人、男は二人。「ねえ最早帰りましょうよ、母上さんが待っているから」と甘ったるい声。「何故母上さんは一所に出なかったのだろう、君知らんかね」と一人の男が言うと、一人「頭が・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・愛などと言うと、甘ったるいもののようにお考えかも知れませんが、むずかしいものですよ。愛するという事は、どんな事だか、私にはまだ、わからない。めったに使えない言葉のような気がする。自分では、たいへん愛情の深い人のような気がしていても、まるで、・・・ 太宰治 「一問一答」
・・・今、この白樺の幹の蔭に、雀を狙う黒い猫みたいに全身緊張させて構えている男の心境も、所詮は、初老の甘ったるい割り切れない「恋情」と、身中の虫、芸術家としての「虚栄」との葛藤である、と私には考えられるのであります。 ああ、決闘やめろ。拳銃か・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、脊筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんて馬鹿げたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・大人の癖に、愛だの、理解だのって、甘ったるい事ばかり言って子供の機嫌をとっているじゃないか。いやらしいぞ。」と言い放って、ぷいと顔をそむけた。「それあ、まあ、そうだがね。」と私は、醜く笑って、内心しまった! と狼狽していたのだが、それを・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ああ、またもや甘ったるい事を言いました。お笑い下さいませ。愛は、人を無能にいたします。私は、まけました。 教養と、理智と、審美と、こんなものが私たちを、私を、懊悩のどん底の、そのまた底までたたき込んじゃった。十郎様。この度の、全く新しい・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ いろいろ小説の構想をしているうちに、それも馬鹿らしくなって来て、そんな甘ったるい小説なんか書くよりは、いっそ自分でそれを実行したらどうだろうという怪しい空想が起って来た。今夜これから誰か女のひとのところへ遊びに行き、知らん振りして帰っ・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・実に、陳腐な、甘ったるいもので、私はあっけにとられたが、しかし、いまの此の場合、画のうまいまずいは問題でない。私のこんどの小説集は、彼の画のために、だめになってしまうかも知れないが、でも、そんな事なんか、全くどうだっていいのだ。男子意気に感・・・ 太宰治 「東京だより」
出典:青空文庫