・・・しかし明い座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくの後白い物は、三度彼女の後を通った。…… またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来に、彼女・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・と思う間もなく牛乳のガラス瓶があとからあとから生き物のように隙を眼がけてころげ出しはじめた。それが地面に響きを立てて落ちると、落ちた上に落ちて来るほかの瓶がまたからんからんと音を立てて、破れたり、はじけたり、転がったりした。子供は……それま・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・しかし、生き物を、こんなに、ぞんざいにするようでは、なに商売だって、栄えないのも無理はない。」と、こんなことを考えたのであります。 家に帰るとさっそく、木に水をやりました。また、わずかばかり残っていた、葉についているほこりを洗ってやりま・・・ 小川未明 「おじいさんが捨てたら」
・・・それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。 三 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。―― 彼は酔っ払った嫖客や、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐ってい・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ 影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている――影だと思っていたものは、それは、生なましい自分であった! 自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面は・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・さまで美しというにあらねど童には手ごろの生き物ゆえ長の児が寵愛なおざりならず、ただかの青年にのみはその背を借すことあり。青年は童の言うがまにまにこの驢馬にまたがれど常に苦笑いせり。青年には童がこの兎馬を愛ずるにも増して愛で慈しむたくましき犬・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・焔は生き物のように、伸びたりちぢんだりして、うごいている。見ているうちに、私は、ふと或る事に思い到り、恐怖した。「この蝋燭は短いね。もうすぐ、なくなるよ。もっと長い蝋燭が無いのかね。」「それだけですの。」 私は黙した。天に祈りた・・・ 太宰治 「朝」
・・・作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては呉れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチエホフの顔を意識している。この鑑賞の仕方は、頭のよさであり、鋭さである。眼力、紙背を貫くというのだ・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・実に奇怪な生き物である。現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に堪えかねて、みずから、革命家の十字架にのぼる決心をしたのである。ジャーナリストの醜聞。それはかつて例の無かった事ではあるまいか。自分の死が、現代の悪魔を少しでも赤面させ反省させる・・・ 太宰治 「おさん」
・・・女というものが、こんなにも愚かな、盲目の、それゆえに半狂乱の、あわれな生き物だとは知らなかった。まるっきり違うものだ。女は、みんな、――いや、言うまい。ああ、真実とは、なんて興覚めなものだろう。男は、ふいと死にたく思いました。なんの感激も無・・・ 太宰治 「女の決闘」
出典:青空文庫