・・・それはこの時戸の向うに、さっき彼が聞いたような、用心深い靴の音が、二三度床に響いたからであった。 足響はすぐに消えてしまった。が、興奮した陳の神経には、ほどなく窓をしめる音が、鼓膜を刺すように聞えて来た。その後には、――また長い沈黙があ・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・どうして素足でここへ来たか、平生用心深い子で、縁側から一度も落ちたことも無かったのだから、池の水が少し下がって低かったら、落ち込むようなことも無かったろうにと悔やまれる。梅子も民子もただ見回してはすすり泣きする。沈黙した三人はしばらく恨めし・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・彼女は小山の家の方の人達から鋏を隠されたり小刀を隠されたりしたことを切なく思ったばかりでなく、肉親の弟達からさえ用心深い眼で見られることを悲しく思った。何のための上京か。そんなことぐらいは言わなくたって分っている、と彼女は思った。 到頭・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・律子は用心深い。「それで結構。」と三浦君は思わず口を滑らせた。 バスが来た。約束どおり三浦君は、姉妹とは全然他人の振りをして、ひとりずっと離れて座席にすわった。なるほど、バスの乗客の大部分はこの土地の人らしく、美しい姉妹に慇懃な会釈・・・ 太宰治 「律子と貞子」
・・・しかし、問題がまだアカデミックな研究にかけるにはあまりになまなましくて、ちょっと手がつけられそうもないから、そういう問題はまずまず敬遠しておくほうがいいという用心深い態度を守って、格別の興味を示さない。 丙種の科学者になると、かえってこ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・女の人は用心深いから、自分達の幸福のためにちゃんとした恋愛をしてゆきたいということはみな考えておりますから、「だまされてもいいわ」という人はひとりもおりません。だまされる可能性が百パーセントお化粧の上に見えている人でも私はだまされるとは思っ・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
出典:青空文庫