・・・「これは?」 新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥の前に佇んだまま、卓子越しに夫へ笑顔を送った。「田中さんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」 卓子の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。白天鵞絨の蓋を・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 彼は、内室からこの話を聞くと、すぐに、以前彼の乳人を勤めていた、田中宇左衛門という老人を呼んで、こう言った。「林右衛門めを縛り首にせい。」 宇左衛門は、半白の頭を傾けた。年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層皺を増してい・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・ お君さんの相手は田中君と云って、無名の――まあ芸術家である。何故かと云うと田中君は、詩も作る、ヴァイオリンも弾く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌も巧い、薩摩琵琶も出来ると云う才人だから、どれが本職でどれが道楽だか、鑑定の出来るも・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 田中喜一氏は、そういう現代人の性急なる心を見て、極めて恐るべき笑い方をした。曰く、「あらゆる行為の根底であり、あらゆる思索の方針である智識を有せざる彼等文芸家が、少しでも事を論じようとすると、観察の錯誤と、推理の矛盾と重畳百出するので・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・が、沼南の清節は袍弊袴で怒号した田中正造の操守と違ってかなり有福な贅沢な清貧であった。沼南社長時代の毎日新聞社員は貧乏が通り相場である新聞記者中でも殊に抽んでて貧乏であった。毎月の月給が晦日の晩になっても集金人が金を持って帰るまでは支払えな・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 此の頃来たという美しい女の飴売が、二人の子供を連れて太鼓を叩きながら、田中の方から、昼も、夜も、日に二三回は必ずやって来るが、あまり銭をやるものもないと見えて、じきに行ってしまう。銭をもらって歌をうたうて聞かせるのである。按摩の笛の音・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・ 絹代とは田中絹代、一夫とは長谷川一夫だとどうやらわかったが、高瀬とは高瀬なにがしかと考えていると、「貴方は誰ですの?」「高瀬です」 つい言った。「まあ」 さすがに暫らくあきれていたようだったが、やがて、「高瀬は・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「まあ、田中の新ちゃんやないの。どないしてたんや」 もと近所に住んでいた古着屋の息子の新ちゃんで、朝鮮の聯隊に入営していたが、昨日除隊になって帰ってきたところだという。何はともあれと、上るなり、「嫁はんになったそうやな。なぜわい・・・ 織田作之助 「雨」
・・・道子の姓名は田中道子であった。それが田村道子となっているのは、たぶん新聞の誤植であろうと、道子は一応考えたが、しかしひょっとして同じ大阪から受験した女の人の中に自分とよく似た名の田村道子という人がいるのかも知れない、そうだとすれば大変と思っ・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・けれどもその家庭にはいつも多少の山気が浮動していたという証拠には、正作がある日僕に向かって、宅には田中鶴吉の手紙があると得意らしく語ったことがある。その理由は、桂の父が、当時世間の大評判であった田中鶴吉の小笠原拓殖事業にひどく感服して、わざ・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
出典:青空文庫