・・・昨十八日午前八時四十分、奥羽線上り急行列車が田端駅附近の踏切を通過する際、踏切番人の過失に依り、田端一二三会社員柴山鉄太郎の長男実彦(四歳が列車の通る線路内に立ち入り、危く轢死を遂げようとした。その時逞しい黒犬が一匹、稲妻のように踏切へ飛び・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・さういふものゝ僕の住んでゐる田端もやはり東京の郊外である。だから、あんまり愉快ではない。 芥川竜之介 「東京に生れて」
・・・門に立てる松や竹も田端青年団詰め所とか言う板葺きの小屋の側に寄せかけてあった。僕はこう言う町を見た時、幾分か僕の少年時代に抱いた師走の心もちのよみ返るのを感じた。 僕等は少時待った後、護国寺前行の電車に乗った。電車は割り合いにこまなかっ・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・ 今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。 私は妙な事を思出したのである。 やがて、十八九年も経ったろう。小児がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・七 田端の月夜 三十六年、支那から帰朝すると間もなく脳貧血症を憂いて暫らく田端に静養していた。病気見舞を兼ねて久しぶりで尋ねると、思ったほどに衰れてもいなかったので、半日を閑談して夜るの九時頃となった。暇乞いして帰ろうとする・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・行かれぬのでなおそう思う。田端辺りでも好い。広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、当もなく歩いていたいと思う。いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・省線で田端まで行く間にも、田端で大宮行きの汽車を待っている間にも、目に触れるすべてのものがきょうに限って異常な美しい色彩で輝いているのに驚かされた。停車場のくすぶった車庫や、ペンキのはげかかったタンクや転轍台のようなものまでも、小春の日光と・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 子規の葬式の日、田端の寺の門前に立って会葬者を見送っていた人々の中に、ひどく憔悴したような虚子の顔を見出したことも、思い出すことの一つである。 千駄木町の夏目先生の御宅の文章会で度々一処になった。文章の読み役は多く虚子が勤めた。少・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・谷中の台地から田端の谷へ面した傾斜地の中腹に沿う彎曲した小路をはいって行って左側に、小さな荒物屋だか、駄菓子屋だかがあって、そこの二階が当時の氏の仮寓になっていた。 店の向かって右の狭苦しい入口からすぐに二階へ上がるのであったかと思う。・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・ 堤の南は尾久から田端につづく陋巷であるが、北岸の堤に沿うては隴畝と水田が残っていて、茅葺の農家や、生垣のうつくしい古寺が、竹藪や雑木林の間に散在している。梅や桃の花がいかにも田舎らしい趣を失わず、能くあたりの風景に調和して見えるのはこ・・・ 永井荷風 「放水路」
出典:青空文庫