・・・僕は今この港の光景を詳しく説くことはできないが、その夜僕の目に映って今日なおありありと思い浮かべることのできるだけを言うと、夏の夜の月明らかな晩であるから、船の者は甲板にいで、家の者は外にいで、海にのぞむ窓はことごとく開かれ、ともし火は風に・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・多分僕に茶を注いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出で将来の夢を・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・小豆島で汽船に乗って、甲板から、港を見かえすと、私には、港がぼやけていてよく分らなかった。その時には、私は眼鏡をはずしていたのだ。船は客がこんでいた。私は、親爺と二人で、荒蓆で荷造りをした、その荷物の上に腰かけていた。一と晩、一睡もしなかっ・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・筋がありますから、その筋をたよって舟を潮なりにちゃんと止めまして、お客は将監――つまり舟の頭の方からの第一の室――に向うを向いてしゃんと坐って、そうして釣竿を右と左と八の字のように振込んで、舟首近く、甲板のさきの方に亙っている簪の右の方へ右・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・直さんの家の廊下が船の甲板で、あの廊下から見える空が海の空で、家ごと動いているような気のして来ることも有りますよ」 とまた弟はおげんに言って見せて、更に言葉をつづけて、「姉さんも今度出ていらしって見て、おおよそお解りでしょう。直さん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・私は紺絣の着物、それに袴をつけ、貼柾の安下駄をはいて船尾の甲板に立っていた。マントも着ていない。帽子も、かぶっていない。船は走っている。信濃川を下っているのだ。するする滑り、泳いでいる。川の岸に並び立っている倉庫は、つぎつぎに私を見送り、や・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・海上の甲板で、軍歌を歌った時には悲壮の念が全身に充ち渡った。敵の軍艦が突然出てきて、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑となっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗れた姿・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・霧の甲板にひびく汽笛の音とその反響によってある港の夜の空間が忽然として観客の頭の中に広がるのである。 音が空間を描き出すのは、音の伝播が空間的であって光のごとく直線的でないためである。それがためにまたわれわれは音の来る角度を制限すること・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・観音の境内や第六区の路地や松屋の屋上や隅田河畔のプロムナードや一銭蒸汽の甲板やそうした背景の前に数人の浅草娘を点出して淡くはかない夢のような情調をただよわせようという企図だとすれば、ある程度までは成効しているようである。ただもう一息という肝・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・おそらく生まれて始めて汽船というものに出会って、そうしてその上にうごめく人影を奇妙な鳥類だとでも思ってまじまじとながめているのであろう。甲板の手すりにもたれて銃口をそろえた船員の群れがいる。「まだ打っちゃいけない。」映画監督のシュネイデロフ・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
出典:青空文庫